第三部 天 獄 9 焦燥

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 あれほどの殺戮を成し遂げておきながら、宙天を見据える蒼白い王の顔には一滴の返り血もない。たなびく漆黒の戦装束もいささかも汚れてはおらぬ。すべて夢の中の出来事であったかのように、現れたときとまったく同じ清き美しさで、そこに立っている。  だが王の心が流す血涙が見えぬ者がこの場にいるだろうか?  その背を見つめるアシュレイドの胸にも、云いようのない悲哀が吹きあがった。  王の背を見つめているだけで、悟るには充分だった。  かけがえのないものが、この世界から奪われたのだと。  王の背はこの場の誰よりも大きな傷を負い、涙を流しているように映るのだった。 (やはり、そうか)  セダルは神司を抑え精霊らを解き放ちながら、確信を得ている。  この下級神らの無謀な行為と、ナシェルの気が感じられなくなったことが一つの線で結びついていると。   (怒りのままに瞬殺してしまったが、交換材料として生かしておくべきだったか?  ……いや、どう振り返ろうと我が領土への不可侵の禁を破った罪は重い。生かして帰すわけにはいかぬ。  それにあのような下級神ども、たとえ10名捕虜にしようがナシェルひとりと釣り合うはずもない…)  そして王子はやはりあちら側(・・・・)か。死に瀕しているのではなかろうか。  否、落ち着け。兄のことだ、あれの重要性はもとより承知しているはず。殺しはすまい。  だが己と同じ相貌ゆえ若い神らの間で見世物となっている可能性は充分考えられる。  今すぐ闇嶺を駆って取り戻しに往かねば。  今すぐにもこの場を離れて!  しかしセダルはその激情を抑え己に言い聞かせる。  壊滅的となった前方ふたつの砦、そしてジェニウスに調べに行かせた疑似天の状況を把握してからだ。  三界のひとつを治める王の立場が、これほどまでにもどかしいのは初めてだった。   冥王は紅の双瞳を閉ざし神経を研ぎ澄ませる。  聞こえてくるのは王子神を見失った精霊たちの歎きばかり……。  崩れかけた城崖に置いた手を握りしめる。  常になく、その拳は焦りのあまり震えていた。 
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