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ナシェルは云うなり、腰に佩いた剣を抜きかかった。炎獄界の焔で鍛えられた神剣・蒼眸の慈悲である。
鞘から少し垣間見せるだけで、その刀身からは黒々と光る神気が満ち溢れ、その力のあまりの大きさに、あわれな魔物たちはギャッと叫んで後ずさった。
ナシェルが幻嶺の腹を蹴る振りをしただけで、彼等は完全に恐れをなし、惨めな悲鳴を上げて逃げ出し、あっという間に視界から消えうせた。
「ふん、毎度毎度、学習能力のない奴等だ」
闇の王子はせせら笑い、乗騎に軽く鞭を入れる。主人の意を汲んだ幻嶺は、そのまま下方に見えている宮殿目指して駆け下りてゆく。ナシェルの黒髪は風を受けて優雅に靡き、その漆黒のマントは、黒き流星のように尾をひいて流れた。
冥王セダルの宮殿は、魔族たちの暮らす都の最も高い丘の上に、堅固な要塞のように聳え立っている。その規模は暗黒界にあるナシェルの居城と比べてもはるかに大きい。地盤となっている堅い岩盤を掘り下げて、地下数十階まで造らせたのだという。幼いころをここで過ごしたナシェル自身ですら、まだ未知の場所は腐るほどある。
幻嶺が、宮殿の中庭のひとつに翼をはためかせて降り立つ。つむじ風が巻き起こり、中庭や回廊に居た侍女たちはドレスの裾を押さえて抗議の声を上げようとした。しかし馬の背からひらりと降りた長身をみるなり、代わりに出たのは切なげなため息。
「ナシェル様だわ」
「まあ、冥府にお越しになるなんてお珍しい……、お目にかかれるなんて、幸運よ」
「立派になられて。本当に陛下に似て麗しいお姿ですこと」
ひそひそと云いあい、魔族の宮女たちは柱の影からナシェルを覗き眺める。
ナシェルは侍女たちの関心など無視して、漆黒のマントを翻し歩き出した。冥王や家臣たちの政務の場である外殿を避け、王の私的な住居と後宮がある内殿に入る。
病を抱える女神セファニアは、奥まった所にある寝室に引きこもっている。子供を身ごもってからは一層、人前に姿を現さなくなった。
紅い絨毯の張られた壮麗な回廊を歩みながら、彼の思うことは美しき継母のことばかりである。
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