《第一章》最初のレッスン

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《第一章》最初のレッスン

  「ふーん。柊平はこういうの好きなんだぁ」  彼氏の部屋の本棚で見つけた写真集をめくりながら、私は呟いた。 「あっ、ちょっと遥香ちゃん、なに勝手に見て……!」  キッチンでお茶の準備をしていた柊平が慌ててソファにやってきて、それを奪おうと手を伸ばす。  私は背中をくるりと向けて防いだ。大判の漫画本サイズのページをさらにめくると、写された肌色の面積がどんどん広がっていく。 「ね……、ねぇ、ほんとさ……」 「で、柊平はどっちがしたい人?」  そう言って、私は見ていたページを突きつけた。それは、女の人が縄で縛られて背中をそらせている写真だった。  表情こそうかがえないけれど、くくられて盛り上がる肉や肌にうっすら浮かぶ汗、窮屈そうなのにどこか妖艶な媚態は、女の私でもどきりとするほど繊細な美しさをたたえていた。  本のタイトルにあるとおり、『緊縛』という行為だ。 「し……」  彼から勢いがすっかり消えた。だんだん萎れていく様子に、やり過ぎたかと一瞬焦る。  でもこうして言いよどんでいるということは、と思い直し、私は彼の言葉を辛抱強く待った。 「縛られるほう……」  耳まで赤くして、柊平は小さく口にする。  彼と付き合って一年。私の彼氏の、新たな側面があらわになった瞬間だった。 「そうなんだ。全然知らなかった」 「ひ……、引かない?」 「んー。まあ臭いとか汚いとか、なんか特殊なのだったらちょっとイヤだけど、これなら」 「男なのに、とか」 「女王様ってのがいるんだし、不思議じゃないよ」 「そっか……」  決して非難してなどいないのに、柊平はずいぶんと縮こまった様子でいる。  だけど私は、付き合い始めてから彼が今日までじっと隠していた趣味に、内心好奇心をくすぐられていた。 「されたい?」  訊いてみると、彼はしばらく黙ったあとでためらいがちに「うん……」とうなずいた。 「でもどうやったらいいんだろ?」 「え、っと、SMバーとかハプニングバーで、講習会があったりする」 「講習会?」 「縛り方とか教えてくれるんだって」  ふうん、とうなずきながら、詳しいんだな、調べていたんだろうな、とぼんやりと考える。  私自身は正直SやMとかよくわからない。だからこうして自ら縛られたいと言い切るのは、きっとそれなりに強い願望なのだろう。  なにより最近セックスが月一くらいになっていたのは、そういうところにも原因があったのかもしれない。 「……行ってみようか」 「いいの?」 「あ、でも高いとかだったらちょっとあれだけど……」 「俺出すよ、全然!」  前のめりに言われて軽く面食らった。いつもはデートのお店ひとつ決めるにも時間がかかるのに、と少しばかりモヤッとする。 「じゃあ、休みの日にやってるやつで」 「わかった。調べとくね」  うれしそうな笑みを浮かべて柊平は、私の唇にちゅっ、と犬がするみたいなキスをする。 「……しょうがないなぁ」  そう言いながら嘆息する私は、発した言葉がそのまま自分の本心で言っているのに気がついた。  新卒で私が入社したとき、彼は前年入社の先輩で、事業戦略部に配属された私の指導をしてくれていた。爽やかな見た目とゴールデンレトリバーみたいな雰囲気で、周りからの評価も高かった。  関係に変化が起きたのは三年目だ。彼の異動が決まり、三次会の会場探しで盛り上がる群れから少し外れ、それとなく二人並んだときだった。 「三次会って気分じゃないなあ」と彼はため息混じりに言った。「前嶋さんは?」  尋ねられた私も大人数のそれに気が進まなくて、「今なら主役の戸田さんが抜けてもバレないかも」と、同調した。それが普通の平日の夜に、あるいは休日に会うようになり、付き合いが始まるまでとても自然に進んだ。  だから一年も経てばマンネリするのだって、それと同じように自然なんだと思う。 「ねえ遥香、全社ネット見た?」  空になったオムライスのお皿にスプーンをからんと置いて、向かいに座る同僚の木崎真緒が声を弾ませる。「戸田さん。こないだの若手コンペで優秀賞だったって」 「ああ、うん。見た」  とはいえ写真があったからという理由だけでクリックした記事はほとんど流し読みで、へえ、ふうん、そんなこと言ってたっけと首をひねるばかりだった。  彼女は肩のあたりでくるんと丸まる茶色い髪を不満そうに揺らす。コテで巻いても夕方には跡形もなくなる黒髪ストレートの私は、ほんの少し羨ましく思う。 「あれ、意外。彼氏のお手柄、うれしくないの?」 「うれしいけど、それで私がどうなるってわけでもないし」  焼き魚定食を綺麗に片付け、満腹感にひと息ついた。  そういうもん? と言いたげな真緒をよそに、傍らの冷めきったお茶を飲む。 「お祝いとかしないの?」 「考えなくもない、程度かなあ。本人から聞いてから決めるよ」 「なんか冷めてるねえ。あたしなら将来とか考えちゃう」 「将来って……、まさか結婚?」 「もちろん! 今どき独身でも全然いいーって人も多いけどさ、あたしはしたい。生涯寄り添えるパートナーほしい」  力を込めて言い切り、真緒は両手で頰づえをついた。  私も「何か」がしたくてこの会社に入ったはずなのに、面接で並べたてた志望動機はなに一つ覚えてない。営業事務でただ降ってくる書類を片づけ円滑に仕事を回すだけの日々だ。それでも彼女はどんな動機であれ、恋愛という潤いを本気で求めている。そのパワーは、私には真似できない。 「前嶋さん」  横から声が掛かってそちらを向いた。スーツ姿の柊平が同僚数人と、食べ終わったトレイを持って立っていた。 「戸田さん」 「さっきメール送ったんだ。確認しておいてもらえる?」  こういうときはだいたい、会社メールじゃなくて私用携帯のほうだ。 「わかりました」  なんだろうか。談笑しながら去っていくうしろ姿を見送り、膝に置いたランチトートに手を突っ込む。 「『前嶋さん』」  真緒は面白そうにニヤニヤと言った。 「……会社で知ってるの、うちの課の同期だけなんだよ。公表もする気ないし」 「案外他部署で狙ってる人いるよ?」  からかう言葉を「はいはい」と受け流し、スマホの画面を見た。 『見つけたよ。土曜日にここ行こう』  そのすぐ下には『ハプニングバー』の文字。URLまではさすがに開けず、中に放り込んで立ち上がる。 「さ、私たちも戻ろう」  私が何者であろうと仕事は回ってきて、同僚と顔を突き合わせ、ときどき彼氏と連絡を取り合う。  それがいわゆるふつうの私が、ふつうに送る日々だった。  地図を見てまず、銀座という立地に驚いた。会社から徒歩で行けてしまう場所だ。  しかももっと遅い時間だと思ってたのに、十八時なんて健全な時間から緊縛ショー、そのあとで講習会があるのだという。  それになにより、柊平のテンションにも驚いた。JRの有楽町駅を出てからここまで、どこか弾むように歩いてる。見えない尻尾、ぶんぶん振っているのがわかる。 「このビルだよ遥香ちゃん」  柊平がスマホ片手に指差したのは、人通りの少ない路地を行ったところにある雑居ビルだった。だけど居酒屋やクラブの名が羅列する中に該当の店名はない。  ホームページを信じて地下二階までエレベータで下りると、頑丈そうな真っ黒い扉のすぐ横に『691』と書かれた白い看板とインターホンがあった。 「ロックワン……。ここみたいだ」  柊平が、意を決したようにボタンを押す。すると「少々お待ち下さい」と返ってきて、すぐに開いた扉から「いらっしゃいませ」と男性が出てきた。彼が背にする内扉の向こうから、聞き取れないくらいかすかな話し声がしていた。 「新規なんですけど」柊平が言う。 「こういったお店も初めてですか?」 「はい」 「では、それぞれこちらへのご記入と、身分証と保険証のご提示をお願いします。今日は緊縛講習がありますが、お二人は参加されますか?」 「はい」 「あまり時間がないので、先にこちらの記入を」  ボード付きのシートと利用規約が渡された。簡単な説明を受けながら記入して、免許証とともに渡す。トラブル防止の意味もあるのだろう。いけないことをしているようで、なんだかドキドキしてくる。 「ありがとうございました。入会金と利用料と講習料で、二万円になります」  金額に目を開いた私に、柊平がこそっと「俺が」と財布を出した。非日常を買う感覚がじわじわと迫ってくる気配がした。 「僕はスタッフの岩谷です。ここではトラブル防止の観点から、本名以外のお名前を名乗ることを推奨しています。じゃ、中へどうぞ」  岩谷さんは朗らかに笑ったあと、扉を開けて先導した。ノリのいいクラブミュージックが、会話の邪魔にならない程度に流れているのが聴こえていた。  上がり込んだ先にまず、更衣室にあるようなロッカーがずらりと並んでいる。 「荷物はこちらに入れてください。携帯操作はここかカウンターのみ。お客さん同士の連絡先交換も、ご遠慮いただいております」  言われたとおりロッカーに二人分の荷物をしまい、スプリング付きの鍵は柊平が持った。 「では店内に参りましょう」  岩谷さんはその先の黒いカーテンをくぐり、私たちを招いた。  入ってすぐに、居心地のよさそうなバーカウンターがあった。六つ並んだ白いスツールソファに男性が二人と女性が一人座っていて、バーテンダーの男性と話している。棚にはお酒がずらりと陳列され、種類も豊富だった。 「ソフトドリンクと一部アルコールは利用料に含まれているので無料。カウンターの右奥に行くとシャワールームとトイレ、更衣室が並んでます。で……」  そこを過ぎると拓けた空間が広がった。ローソファや小さなテーブルが点々と置いてある。壁には鞭や縄もかかっていた。 「ショーと講習は、あの壁際のステージでやります。あと十分ほどしたらお声がけします。それから向こうがプレイルーム」  軽い手振りで示した先に、扉が三つ。時間が早いせいか使っている人はいないようで、半開きのドアを一つ開けて中を見せてくれた。四畳くらいの広さで、オープンスペースと違ってさらに暗い。 「利用する際はスタッフにお伝えください。中はオートロックで、同意さえあればスワップも相互鑑賞も可能です。絡みたい方がいたら、スタッフに申し出てくれればお膳立て程度のセッティングはします」  話がとたんにディープになった。立て続けに並んだ言葉が刺激的すぎてぽかんとする。  スワップ? 相互鑑賞? 絡みってなに? 「プレイ時にはカップルでも必ずゴムの着用を。置いてある箱からサイズに合わせて取ってください。ほかにはおもちゃなんかもあるので、お好きにルームへ持ち込んで構いません」  単語は卑猥なのに説明は終始淡々としていた。私の混乱は置き去りにされたままだ。  柊平をちらっと見たらすでにとろけそうな顔をしてて、そこはかとなく温度差を感じた。 「あとはコスプレの衣装もありますが、なにか着ます?」 「へっ? い、いえっ、大丈夫です……」慌てて遠慮すると、岩谷さんがわかりましたと笑い混じりで言った。 「店内はこんな感じです。質問ありますか?」  私たちは互いに視線を交わす。私は首をひと振りし、柊平が瞬きで頷いた。 「ありません。ありがとうございました」 「では時間までくつろいでてください。ただし、緊縛の前にお酒は飲まないようお願いします」  そう言われたはいいけれど、どうくつろいでいいのかまるで勝手がわからない。どうしたものか柊平に聞こうとした瞬間、 「あ、カナちゃん」  岩谷さんの声にそちらを向いた。 「岩さーん。この衣装どう? 変じゃなあい?」  肩で揃ったボブヘアが似合う、小柄で幼い雰囲気のかわいい女の子が立っていた。白いワイシャツ一枚で、ショーツの三角が裾から覗く。ノーブラらしく、胸の豊かさも乳首の位置も丸わかりだ。私はやり場に困った目を慌ててそらした。 「いいじゃんセクシーで。ってかショー前にどうした? エイジさんは?」 「スタッフルームで縄のチェック中。講習会、何組来るのか訊いてこいって。カナも演者なのに人使い荒ーい」 「まったくあの人は……。今のところ二組。たぶんあともう二組来るはず。そんくらい自分で訊けって言っていいよ」 「りょーかーい。あれえ? 見ないお顔。ご新規さん?」  きょろっとした彼女の目が移ってくる。あっけに取られた私たちが返事に窮していると、 「うん。講習会にも参加するって」と岩谷さんがフォローしてくれた。 「そうなんだぁ。今日のショーで縛られるカナでーす! 楽しんでってねえ!」  満面の笑みで手を振られ、思わず苦笑いになりながら控えめに手を振り返す。だけどそれを見たか見てないかというくらいの身軽さで、彼女はステージの先のほうへ駆けていった。  縛られるってことはM、なのだろうか。なんて明るくて人懐っこいんだろう。  ちらりと見上げた柊平は、鼻の下を伸ばしてぽーっと呆けた顔をしていた。 「ごめんね。彼女、ここの近くのフェティッシュバーの子なんだけど、だいたいいつもあんな感じで」 「げ、元気なんですね……」 「エイジさんとのここでのショーが久し振りだからテンション高いのかも。あ、エイジさんて、緊縛ショーと講習会の講師もする緊縛師ね。ホームページの今日のイベント告知のところにプロフィールを載せてるから、興味あったら見るといいよ」  すっかり敬語が崩れた岩谷さんを見送って、「とりあえずなんか飲もう」と、柊平を誘った。  カウンターではさっきの三人がまだ喋っていた。一つ席を空けてスツールに座ると、顎ひげを蓄えうなじのやや上で髪をひとつ結びにしたバーテンダーが、「ご注文は?」と聞きに来る。  ジンジャーエールを二つ頼み、柊平はポケットからスマホを取り出した。 「さっき言われたやつ?」 「うん。見ておこうと思って」  首をせり出し私も画面をのぞき込む。イベントページにある小さな写真と簡易プロフィールを、柊平が二本指で拡大した。  真摯な面持ちで女性を後ろ手に縛る横顔。底深さが窺える野性的な瞳。そのくせ柔らかそうにウェーブした、首にかかる髪。  千堂瑛二、三十四歳。緊縛師・フォトグラファー。記されていたのはそれだけだったけど、ここで何が起こるのか判然としなかったものが、急に輪郭を帯びた。この人があの女の子を縛り、私に緊縛を教えてくれるのだ。  どうぞ、グラスが二つ置かれ、私たちはそれぞれを手に取った。 「コンペ受賞おめでとう」  思い出したようにお祝いを口にして軽くグラスをぶつけると、柊平ははにかみ「ありがとう」と言った。  本人からは今の今まで報告もなにもないまま。それもあって、すごいねとか、やったじゃんとか言い足そうとも思ったけど、うまく言葉は出てこなかった。真緒が言うより大したことではなかったのかもしれない。  私は複雑な気分を抱えたまま、グラスを静かに傾ける。お酒の力でも借りられればよかったのに、それすらもらえないのがどうにももどかしかった。  時間です、と声を掛けられ、ステージ前に向かう。お客さんは十五人ほどで、スーツの人やカップル、おじさん、女性とさまざまだ。  さっきは気づかなかったけど、そこは数センチ高い半径三メートルほどの半円状のステージになっていて、みんな周りを囲むように床に座っている。少し上を見ると、手の届く位置にフックが降りていた。  照明がスポットライトだけになり、ピアノの調べが聴こえてきた。そこへカナさんがあの格好でゆっくりと歩いてきて、ステージの上に横を向いたまま正座した。明るく手を振ってきた子と同じと思えないくらい、妖艶で気だるげだった。  その彼女に、男の人が静かに近付いてきた。写真で見た『瑛二さん』だ。左手に縄の束を抱えている。彼のまなざしは鋭くまっすぐ彼女だけに注がれ、私たちのことなど目に入っていないかのようだ。  彼の全身を見上げる。黒のパンツにグレーのTシャツで、背が高く凛とした様子は猛禽類のいでたちを思わせる。これから彼女を捕らえて啄むのだろうか。  彼は彼女の真後ろに立って彼女を見下ろし、左手の縄をパッと床に落として、膝をつき抱きしめた。まるで恋人にするような、深い抱擁だった。  これから縛るのに、どうしてそんなに愛情に溢れた抱き方ができるのだろう。  思ったのもつかの間、今度は首を締めるかのように両手が巻きつく。その手は緩やかに彼女の腕から手首、手のひらへ。それから首を撫で、顎を捉えて彼はそのまま彼女を上に向かせた。  上下で絡まる二人の視線。やがて彼は右手で彼女の大きな目を覆い、手振りひとつで閉じさせる。はあっ、と息を発して、彼女の頭はかくんと前に落ちた。  まだそれだけしかしていないはずなのに、高揚感があった。興奮とか欲情とかそんな単純なものじゃない。鳥肌が全身を襲う。  ただただ、正面の光景から目が離せない。  縄をほどいた彼は、彼女の両腕を撫でるようにして背に連れていき、上下に重ねて縄をかけた。しゅっ、しゅるっ、と縄を手繰るたび、軽くも厳しい音が空と床を叩いていた。手首を括ったその縄は、左の上腕へと向かう。  彼女を優しく抱くように胸の上にかかり、右の上腕へ。背中を回りもう一周。二の腕にわずかに食い込んだ縄が、彼女の柔さを伝えていた。彼がなにかを囁いたのか、彼女が小さく声を漏らす。  戻ってきた縄は起点の一本と背の一本を通してぐっと引かれた。彼女の手首が背の縄に窮屈そうに近付いて、背がそらされる。 「あ……」  発した声が自分のものだと気付いて思わず手に口を当てた。  ずっと彼女を見ていた彼の目が、ほんの一瞬だけこちらに向けられた気がした。今の声、気付かれてしまったのだろうか。  だけど彼は何事もなかったように、新たな縄を足して胸の下を括る。彼女を抱きしめるように、何度も縄を回していく。そのたびに彼女の躰は、縄に任せて小刻みに揺れていた。  背から首の脇を通って胸の下の縄をくぐり、また背に戻る。胸が綺麗に張り出して存在感を主張していた。縄に挟まれた豊かな柔肉は、シャツ越しだというのに写真で見るよりもずっと背徳的に映った。  彼は天を仰ぎ、うしろで結んだ縄をフックに掛ける。それからまた彼女に何かを囁き、縄を力いっぱい引いた。 「んぅっ……!」  彼女が堪らずといったふうにうめき声を上げた。上半身が持ち上がるにつれ彼女のお尻は浮き、太ももが伸びて、膝がぎりぎりつくかというところで止まる。そして彼は彼女の肩に手を置くと、私たちのほうを向かせた。彼のなすがままの彼女の半開きの口から、喘ぐような息が聞こえる。 「……カナ」  熱い吐息混じりの低い声に呼ばれた彼女は、ゆらりと気だるげに顔を上げ、胸を張った。その彼女を褒め称えるように、彼はそっと彼女の頬をさすり、唇の端に口づける。  彼女が閉じていた目をうっすらと開けた。上気した頬。潤んだ瞳。その表情はまさに恍惚としている。  なんて、綺麗なのだろう。まるで開花だ。  両手で塞いだままの口から、思わずため息がこぼれた。  彼は最後に愛おしそうに彼女を背後から抱き締めて、胸に置いた手を時間を掛けながらお腹、腰、太ももと順に撫でる。 「はぁっ……」  今度は彼女から声が漏れた。  彼が彼女から離れ、スポットライトが彼女だけのものになる。この異様な空間の中で彼女だけが照らされていた。  戻ってきた彼はカメラを手にしていて、レンズを彼女に向けた。  シャッター音とストロボにさえ、彼女の躰がぴくりと跳ねる。この瞬間すらも彼らにとってはショーの一部のようだった。  満足げに笑った彼はカメラを床に据えて立ち上がり、フックの縄を緩めてゆっくりと彼女を地上へ戻す。  一本ずつ丁寧に彼女に巻かれた縄が解かれていく。解くときも抱き締めるように、結び目の一つ一つすらも慎重に。  最後には眠りに落ちたお姫様を寝かせるかのように、彼は自身の膝の上にそっと横たえた。それを合図にしたように音楽もスポットライトも消えた。  真っ暗になった視界の中で、私の頭は放心したように呆けていた。 「遥香ちゃん?」  柊平に声を掛けられて、ハッと顔を上げる。  照明が灯されたステージで、演者二人は正座して頭を下げている。沸き起こる拍手に、私は弾かれたように手を叩いた。 「大丈夫?」拍手に紛れて柊平が耳打ちする。 「あ、うん、なんか……、ぼおっとしちゃった」 「ね、凄かったね」  なんだろう、この感じ。映画でものすごく感動したときとかによく似てる。 「このあとの講習に参加される方で、パートナーがいない方は?」 『瑛二さん』はカナさんの頬に手を当てながら、低いけど張りのある声でステージ周りの人たちに尋ねる。一人の男性が手を挙げた。 「僕いないです」 「じゃあ今日はカナ……、彼女を受け手に受講してください。講習はこのあと、十五分後から」  彼の号令で場は一旦お開きになった。 「……柊平。私、お手洗い行ってくる」  彼に断りを入れ、私は立ち上がる。とにかく一度一人になって、頭を整理したかった。  油断すれば転んでしまいそうで、慎重に歩く。やっとの思いでトイレの個室に入り、鍵を掛けてようやく息をついた。  さっきのは一体なんだったんだろう。今もまだドキドキが続いてる。  思っていた感じと全然違う。もっと荒々しかったり、女の子が苦しそうにするものなんじゃないかって。なんならロウソク垂らしたり、鞭で叩かれたりするんじゃないかって。  だけどさっきのは、ただ縛っただけなのに、セックスよりもずっと深い繋がりがあるように見えた。  個室を出て手を洗いついでに鏡を見る。赤らんだ顔はなんだか自分じゃないみたいだ。  そう思ったとたんに頭がわーっとなり、ペーパータオルで乱暴に手を拭いゴミ箱に放る。と、 「あ、さっきの子だぁ」  ステージの妖艶な姿から一変、最初に出会ったときの調子で彼女が明るく声をかけてきた。 「……カナさん」 「やだあ、さん付けなんて柄じゃないよぉ。ねっ、見てた? どうだった?」  小走りで迫って両手を握られ、思わずたじろぐ。格好に、その胸に、なによりギャップにドギマギして視線が泳ぐ。 「あ……あの、凄かったです。カナ、ちゃん」 「うんうん、それから?」 「思、ってた緊縛のイメージとは違ったけど、圧倒されたし……。きれい、でした」 「うわぁー、うれしい!」  彼女は満開の笑顔で、ステージ上で恍惚としていた様子からは想像もつかないほど、よく笑ってよく喋った。 「瑛二さんはねぇ、ぶっきらぼうだし曖昧で独特だけど、いつも絶対きれいにしてくれるんだ」  目を軽く閉じてうっとりと告げ、ほうっとしたため息をついて再び目を開け、私を覗き込む。 「講習会も出るんでしょ? 縛り手? 受け手? ていうかお名前聞いてないや。なにちゃん?」 「は、遥香です。一応彼を、縛るつもりで」 「わあっ、女の子で縛り手になってくれるの、うれしいなあ。縛るの上手になると、女王様にだってなれるんだよ。がんばってね、遥香ちゃん!」  さっきと同じように手をひらひらと振り、カナちゃんは個室へと消えた。  女王様って、私が。  響きが全然しっくりこなくて、想像を巡らせながらそこを出る。  イメージは仮面をつけ、黒光りするピチピチのボンデージで、網タイツやハイヒールを穿いて鞭を持ってる強い女性だ。私なんて、到底それに及ばない。  結局感情の落とし所は見つからないまま、私はステージ前に座り込む柊平の隣に腰を下ろした。そういえば、と、彼の感想を訊いていないことを思い出す。 「柊平は、どうだった? さっきの」 「そうだなあ。思ってたよりもエロさは感じなくて、むしろ官能的というか、美、っていうか」  言葉を探すようにしながら柊平が述べ、やっぱりそう感じるんだな、と納得する。 「綺麗だったなぁ……」  私はうつろな声でもう一度言った。  自由を奪っているはずなのに、カナちゃんは綺麗に開花した感じがして、終わったあとでも笑顔だった。そこはプロ意識なのかもしれないけど、それでも凄いと思う。  興味本位だけだったのに、なんて世界を覗いてしまったのだろう。 「……柊平もされたくなった?」 「う、うん……。遥香ちゃんは? 縛ってみたいとか縛られたいとか思った?」 「私、は……」  縛ってみたい、縛られたい、とかそういうのは、なんかちょっと違う、ような。  あえて言うのなら、どっちもしてみたい。技術そのものに惹かれてる気がする。その技術によって引き出される空気とか、世界とか、美しさに。 「……どっちもあるかな。とりあえず今日は縛ってみるけど」 「うん、わかった」  私の思いなど露ほども知らなそうに、嬉しげに柊平が笑った。
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