《第一章》最初のレッスン

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「それでは、講習会を始めます。講師を務めます、千堂瑛二です」  ステージの周りを囲むように集まった私たち参加者七人の前で、座ったまま瑛二さんは自己紹介をした。  Tシャツとショートパンツに着替えたカナちゃんが、人懐っこい笑みを浮かべその隣でぺたんと座っている。一方改めて見る瑛二さんは、近寄りがたい強面をにこりともさせず、愛想というものがまるでない。 「今日やるのは、先ほどお見せした後手縛りのベースとなる三点留め。緊縛の基礎とも言える縛り方です。緊縛では縄を受ける人を『受け手』、縛る人を『縛り手』と呼びます。じゃあ練習に使う七メートルの麻縄を渡すんで、縛り手になる方は前へ」  言われて、おず、と前に出る。女性の縛り手は私だけだ。手渡された麻縄は段ボールのような色で柔らかく、埃っぽいにおいがする。思っていたよりずっと軽い。それでいてなぜか、言いようのない重みを感じた。 「最初に、緊縛をするうえで一番重要なことを。AVなんかじゃ軽く扱われている印象も多いけど、実際の緊縛はあらゆる危険が伴います。どんなときでも必ず同意の上ですること。受け手が嫌がる行為はしないこと。それから近くに、鋏を用意しておくこと」  そこで言葉を切り、彼は切れ味の鋭そうな黒い持ち手の鋏を掲げる。 「安全性の確保は縛り手の責任です。これができないなら、縄を握るべきじゃない」  彼の重い声と言葉に周りがしぃんとした。瑛二さんが私たちの顔を見渡し、私は反射的にこくりと頷いた。彼がふ、と笑った気がした。 「それから受け手も、負荷が高かったり、異変を感じた場合はすぐに伝えてください。その際この場ではセーフワードとして、『レッド』と言うこと。ではまずは基本となる本結びの結び方から。カナ、腕」 「はあい」  カナちゃんは慣れた様子で両腕を揃えて前に差し出す。瑛二さんは彼女の腕の前で縄を半分に折った。 「使うときは基本こうして、半分に折ってください。一本だと皮膚へ負荷がかかり、うっ血や神経を痛める原因になるんで、二本同時に肌に当たるようにする。輪っかがあるほうを縄頭、結び目のほうを縄尻と呼びます。最初は縄頭を利き手に取って手首に二回上から下へ巻き付ける。縄頭のほうに肘から手首分くらいの余裕を持たせてください」  では始めて、と言われて柊平と向かい合い、半分に折った縄を二回、腕に巻き付ける。 「巻けたら下から上に向かってかぶせ、巻いた四本を全部巻き込んで左右に引く。左から来た縄は左へ、右から来た縄は右へ流すようにして、縄頭をできた穴に通して引く。このとき指二本分程度の余裕を持たせる。女性なら三本かな。そのうえでもう一度結ぶ」  カナちゃんの縛られた手首のところを瑛二さんの指が通って抜けた。ぎちぎちにするわけではないらしい。  言われたとおりぎゅっと引くと結び目ができて、そこから動かなくなる。 「これはもちろんうっ血防止。目に見えて紫色になってなくても、指先が冷たくなってきたら拘束を解いてください。ありがとうカナ」  あっさりとできてしまった。案外簡単かもしれない。 「柊平。一回解いて、もう一回やってみていい?」 「う、うん」 「解くなら、結び目に向かって縄をたわませるといい。解きやすくなります」  瑛二さんが私たちを見て言った。「え?」と言いつつたわませてみると、たしかに緩む。 「ほんとだ」 「できるようになったら、今度は後手でやってみようか。手を組ませて背中側に下から縄頭を通して頭の上まで引く。縄を掛ける位置は腕の外側な。内側は血管があって危ないから」 「さっきのショーみたいに、ですか?」 「そう。躰の固さにもよるけど、背中で腕をつかめるならそのほうが楽かもしれない」 「わかりました」  もう一回手首だけでやってみる。これはたぶんもう大丈夫だ。 「後手するから、うしろ向いて」  柊平が私に背を向け、うしろで手を組んだ。柊平は躰が柔らかくないようで、掴むどころか手首付近がぎりぎりだった。  さっきやったのをそのまま横にするだけで、難なくできた。ほかのひとたちも同じように後手に縛り始める。 「では次。今度は本結びをする前に四本分の縄の張り、テンションを均一にさせる。縄と腕の間に指を入れて引き、四本すべてのテンションが揃っているかを感覚で確かめます」  試しに今のテンションを見てみる。確かになんだかバラつきがある。  解いて縛り直しもう一度結ぶ。指の余地を入れつつテンションを整え、こんな感じかと首を傾げた。 「見ようか」  瑛二さんがまたそばに来る。「お願いします」と横にずれた。 「この一本だけ少し緩いな。でも上出来」カナちゃんを縛っているときと同じように、彼のまなざしは真剣そのものだった。  自分でも再度確かめる。微妙でよくわからないけど、言われたらたしかにそんな感じもする。つまり彼は、さっきのショーの最中も常にそれらを確認しながらやってるわけだ。  凄い技術だと感心した。 「続きいこうか」  カナちゃんの背後で説明が始まった。 「縄尻を真上に引いて結び目を上に、そこを起点に左上腕から右上腕へ回して背を通りまた左上腕へ。縄を掛けるときは必ず相手の躰から縄を持つ手を離さないでください。テンションが緩む上に対象も動いてしまう」  瑛二さんの説明に合わせてか、カナちゃんがわざと動いた。 「この通りね。だから、抱きしめるように縄を回す。二週目を回すときは一週目との交点を一度押さえて回すと緩まない。このときも指一、二本入る強さにします」  四本の縄がカナちゃんの躰に巻き付き、瑛二さんは指を動かして見せる。 「二週回したら起点からの二本の下をくぐらせて右下に抜く。そして上へ引く。襟留めという形になります。これを作ると縛った手首が摩擦で動かなくなる。で、上の縄の上を通して下へ。襟留めの上から今度は左上へ胸縄の下をくぐらせて引く。で、ここに隙間を作り縄尻を通す。これが三点留めです」  一気に複雑さが増した。上に下にとなんだか忙しい。 「まあ、ここは言葉よりやったほうが早いので、わからなかったら都度聞いてください」  とりあえず、左腕へ縄を回してみた。そのまま胸を通して右腕。左腕に戻すときに一度支えもう一周。起点からの二本の下……。 「くぐらせたら下に抜く。そう。で上。この交点持って、彼の手、少し動かしてみて」  瑛二さんの指示に従い柊平の手首を握りなにげなく持ち上げた瞬間、「いぃぃぃっ!」と声が上がった。すぐさま瑛二さんが私の手をつかみ、元の位置へとゆっくり戻す。 「緊縛中は受け手を痛がらせるような急な動作は絶対にするな。動かすなら相手をよく見て無理が生じない方向に。つったり脱臼する危険がある」  元々の強面の内から、怒気が増したのがわかった。否応なく「はい」と頷くと、ふてくされる暇もなく彼の指導は続いた。 「上の縄の上を通して下、で回してそう。胸縄の下をくぐって隙間作って通して引く」  言われたとおりにすれば見事にそれらしいかたちになり、「できた」と呟く。 「うまいな。手先が柔らかいのか器用だ」 「ありがとうございます」  怒られるのはいやだけど、できると楽しくなってくる。「柊平、もう一回やっていい?」 「いいけど先に休んでいい? 力んじゃったみたいで腕が……」 「えー……」  手が覚えてるうちに練習したい私は、あからさまに不満をもらす。振り返った柊平は申し訳なさそうに眉を下げ、ごめんと言った。 「わかった。でもなるべく早くね」  結び目を解いて縄を引くたび、先ほどのステージで聞いていたしゅるしゅると気持ちのいい音がする。縄のしなやかな感触も心地よく感じていると、 「きゃっ!」  カナちゃんが突然声を上げた。険しい顔で背後の男性に詰め寄っている。 「ねえ。今わざとおっぱい触ったでしょう」  「なっ、なんだよ、偶然触れただけだろ」男性の方がムッとして言い返した。トラブルみたいだ。 「カナ、どうした?」 「この人、胸縄締めながら触ってくる」  すぐさま彼女のそばに駆け寄った瑛二さんに、カナちゃんは奮然と抗議する。男性は顔を赤くし、バツが悪そうに言い訳を重ねた。 「ちょっと触れちまっただけだ。なにをそんな大げさな……」 「あんたにとってはちょっとでも、された方にしたら違うこともある。受け手が嫌がることはするなと最初に言ったはずだ」  長身の彼がおじさんを見下ろした。細めた目の眼光の鋭さもあいまって凄みが増す。 「彼女はあんたの奴隷じゃない、俺のパートナーだ。触れないのが不服ならほか当たってくれ。そういう店はいくらでもあるぞ。まあこの辺じゃあ高くつくがな」  鼻で笑った彼が放つ威圧感におされ、私も周囲もまたしぃんとした。  受け手をそんなに大事に扱うなんて、まるで本当に恋人みたいだ。パートナーと言っていたけど、つまりそういう関係なのだろうか。 「き……気を、つけます……」 「わかれば結構。カナは?」 「へーき。ありがと瑛二さん」 「んじゃ、どうぞ続きを」  自分が言われたわけじゃないのにヒヤヒヤとして、促されても私はどこか上の空だった。  これが、緊縛師。何度か瞬き、瑛二さんをちらりと盗み見る。イメージしていたただ偉そうで威圧的なご主人様像と、彼の姿はまったくかけ離れていった。 「遥香ちゃん。もう大丈夫だよ」 「あ、うん……」  やっぱり私、とんでもないことをしに来てしまったようだ。 「では本日の講習はここまで。また来週も同じ時間で講習があるんで、よければ是非」  瑛二さんとカナちゃんが一礼して、講習会が終了した。最後はそれなりに和やかになったけど、ピリッとした緊張感は結局最後まで続いていた。 「遥香ちゃん。俺トイレ行ってくる」 「うん。待ってる」  ほかのみんなも立ち上がって散り散りになったけど、私はなんとなくその場から動くタイミングを失い、カナちゃんと瑛二さんが縄を片付けるのをぼんやりと見ていた。 「君たちはセフレ? カップル?」視線に気づいたのか、瑛二さんが私に尋ねる。 「カップルです」 「ふうん」  訊いてきたわりに返事は素っ気なく、怪訝に思って「どうしてですか?」と逆に尋ねた。 「いや、なんとなく」  言葉を濁され私は眉をひそめた。するとそこへカナちゃんが口を挟んできた。 「瑛二さんのその曖昧な言い方、ほんとウザぁい」 「カナ。お前ウザいとか言うな」 「ね、わかんないよねえ、そんなこといきなり言われてもさあ」  とたんにぶっきらぼうな物言いになった彼そっちのけで私に投げかける彼女に、頷いた。彼は一体なにが言いたいんだろう。  しばらく瑛二さんは縄をしゃっしゃっと手繰っていたけど、ひとつため息を吐いて私に意味深な視線をよこした。 「お前、愛してないだろ」 「え?」 「彼のこと。違う?」  不意を突かれて目を見開く。  この人は今、なんて言った? 愛してないって言った? 「そのぶんじゃ気づいてねえか」 「気づくもなにも、そんなことない! 今日だって、彼が縛られたいって言うから来て……」 「縛ってる最中なんも感じなかったか?」 「言われたことをするので精一杯で、そんなの――」 「じゃあ時間の問題だな。断言してもいい」  いくら反論しても一向に効かず、むしろ私のほうに焦りが生まれていた。そのうち、さっきの男性に向けたような鋭いまなざしが私を刺す。 「……縛って、なにがわかるって言うの?」 「さあな」 「縛れるようになったらわかる?」 「知るか。んなもんお前次第だ」 「ならもっとわかるように教えてよ」 「ああ?」  突然吊り上がった声に堪らず怯む。すると「うわあ、瑛二さんイジメっ子ー」と、カナちゃんが助け舟を出すように茶化してくれた。 「イジめてるわけじゃねえよ」カナちゃんを軽く睨んだ瑛二さんは、めんどくさそうに頭に手を差し入れ、私に向き直る。 「来週。同じ時間に来ればいい」  なにを言われるのだろうと身構えていた私は、は、と間抜けな声を放った。 「講習。ただし一人でな。あと三回も来れば、とりあえずの基礎は覚えられる」 「教えてくれるの?」  思わず身を乗り出すと、瑛二さんが肩を竦める。 「こっちは商売だ。金さえもらえりゃ誰でも」 「そうじゃなくて、今言ったことの意味」 「それはお前が自分で勝ち取れ。俺には関係ねえ」  また突き放した物言いをされた。悔し紛れに彼を見据えると、彼はまっすぐな視線を返した。 「……名前は?」 「遥香です。前嶋遥香」 「はるか……」  瑛二さんが逡巡するように口もとに手を当てて私の名前を繰り返した瞬間、本名を名乗るなと言われたことを思い出した。瑛二さんは気にしていないのか、思いついたようにまた私を向いた。 「ルカだな」 「ルカちゃん!」パンッ、とカナちゃんが手を叩き、私は「へ?」と訊き返す。 「これ、一応渡しておくわ」  瑛二さんに一方的に押しつけられたのは、彼のプロフィールがそのまま書かれた名刺だった。 「……はあ」 「あとこれもやる。二メートルしかねえけど、ちゃんと使える麻縄だ。本結びの練習しとけ」  左手はいつの間にかカナちゃんに握られ、右手には名刺と縄。真ん中の私が置いてけぼりになっている。  戸惑いが広がっていく。だけどなにかが始まる予感だけが、私の胸に潜んでいた。 ※続きはKindleでお楽しみください https://amzn.to/3A68U5T
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