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暗い方向へと沈みそうだった思考を戻すように、返事のない彼を自分から引き剥がす。
路肩には、あと一ヶ月もしたら一斉にうるさく鳴きだすセミみたいにびっしりとタクシーが停まっていた。どれでもいいやと思いながら闇雲に手を挙げると、そのうちの一台の後部ドアが即座に開いた。
彼だけを押し込むように乗せて、運転手に『お願いします』と軽く会釈する。そういえばお金は持っているんだろうかと心配になってもう一度彼を振り向こうとしたとき、思いきり服を引っ張られた。不意打ちでバランスを崩した僕は車内に倒れ込むかたちになった。
「え、ちょっと……」
「お前、家はどこだ? 遠いのか?」
「は? え? いや、すぐそこですけど」
「そこって、どこ?」
「えっと、その線路を越えて……」
「で?」
「で、真っすぐ坂を上った突き当りを右に曲がって……」
「それから?」
「えっ。それからは……そのままもう少し走ったところです」
「運転手さん、そこ行って」
「ええっ!?」
状況を理解する暇も与えてくれずに、タクシーはウィンカーを点滅させながら発進する。反動でシートの背もたれに上半身を押し付けられた僕は、「ぼろアパートですけど」と言い訳のように呟いてから深く息を吐いた。
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