だから何も問題ない

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 彼に手を引かれるまま、マンションの中に入りエレベーターに乗る。黒羽さんはしゃべれない僕を気遣って、いつも話題を振ってくれるのだが、今日は店を出た後からほとんど口を開かなかった。口を動かすのは、次のバスに乗るだとか、バス停からしばらく歩くだとか、本当に必要最低限のことをこちらに伝える時のみだった。  エレベーターが上昇する普段なら気にならない音も、沈黙の中では耳をつんざくような不快さを伴って僕らを追いかけてきた。  彼の家の前に着くと、ホテルのようなカードキーを取り出してその扉を開けた。玄関を上がり、奥のリビングへ通される。 「コーヒーを淹れるから、ここに座って待っていてくれ」  僕をソファに座らせると、黒羽さんはすぐ横のキッチンへ向かった。落ち着かない気持ちで辺りを見回す。  広いリビングには、ソファとテーブル、それに大きなテレビ、それだけしかなかった。本や雑誌、置物といった類のものはなく、無駄を一切排したそこは綺麗を通り越して、寂しくすらあった。  部屋にはその家に住む人間の内面が反映されると聞いたことがあるが、この居間からは住人の内面どころか、人が住んでいることを想像することさえ難しかった。  落ち着かないのは、初めて黒羽さんの家にあがるからだけではなく、この生活感のない殺風景さにもあるのかもしれない。 「お待たせ」  コーヒーをこちらに渡すと、黒羽さんは当然のように僕の横に腰を下ろした。彼の太腿が僕の脚に寄り添うようにくっついたので、僕は逃げるようにして股をぎゅっと閉じた。  隣から感じる濃密な気配を紛らわそうと、もらったコーヒーに口をつける。そのコーヒーの味に僕は驚いた。  それはミルクと砂糖を微調整して日頃作っている自分好みの味と寸分の狂いもなかった。舌に何ら違和感を与えることなく口内から喉へ、そして胃へ流れていく。それがひどく気持ち悪かった。 「どう? 大丈夫? おいしい?」  遠慮がちに、けれど期待を湛えた瞳で黒羽さんが訊いてくる。あまりに慣れ親しんだ味に気味の悪さを感じたが、彼の期待を裏切るのも憚られ頷いた。  すると黒羽さんは安堵の笑みを浮かべた。
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