だから何も問題ない

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「教えてくれて、ありがとう」  再び、黒羽さんは僕を抱きしめ頭の上に何度もキスを落とした。僕はそのキスに嫌悪や薄ら寒さを覚える余裕がないほどに、疲れ果てていた。  翌日、学校に行くと、いつも教室の中心で派手な男女に囲まれ軽薄な笑みを浮かべている西條はいなかった。  **** 「西條の話、聞いた?」 「なに、なに?」 「昨日の夜、不良に絡まれて大けが負って、今入院中らしいよ」 「マジで?」  クラスだけに留まらず、学校中西條の話で持ちきりだった。哀れみと恐怖を伴って西條の噂が飛び交う中、僕は旧校舎のトイレに向かって歩みを進めていた。ほとんど利用されることのないそこは、埃の気配だけが漂っていた。  一番奥のトイレに入り、鍵をかける。指先が震えているのは、足元から這い上がる寒さからだけではない。  引きつれる口の端を手で覆う。皮膚を伝うようにして指先の震えが喉の奥にまで広がっていく。  もう我慢ができなかった。そしてここは人気のないトイレ。我慢する必要もない。 「……っ、ふ、ふふふ、ははははっ、はははははっ!」  笑い声が歪んだ唇の隙間を突き破って、暗い腹の底からほとばしる。 「あははっ、ははっ、ざまぁ、ざまぁみろ!」  露骨なまでの悪意を吐き出すごとに、胸の奥は清涼感に満ちていった。  学校中が神妙な雰囲気に包まれる中、僕だけは浮かれ立っていた。しっとりと涙の霧が漂う葬式で鼻歌を口ずさむような不謹慎さだったが、良心すらそれを咎めない。  もちろん僕も心がないわけではないから、入院するまでの暴行を受けたことを痛ましく思わないわけではない。しかし僕への散々な仕打ちを思えば、今回の件はそれに対する正当な罰とも言える。  ざまぁみろ。  今の心境はこの一言に尽きる。暴行の主犯は、直接手を下したかは分からないが、間違いなく黒羽さんだろう。何かしらの報復は予想していたが、ここまでとは思わなかった。  彼の僕に対する深く暗い想いにぞっとしはしたが、しかしそれ以上に感謝にも似た感情があるのも事実だった。  腹の底から湧き上がる笑いはしばらく止まることはなかった。  **** 「どうかした? 何かいいことでもあった?」
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