だから何も問題ない

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 午後の暖かな日差しが直接体に滲むカフェテラスで、食後のコーヒーを飲んでいると、不意に黒羽さんが訊いてきた。そう訊ねてくる黒羽さん自身も何かいいことがあったかのように機嫌がいい。 『いいえ、別に何も』  事実とは裏腹にそう答えたが、そうでないことは彼が一番知っているだろう。しかし、いやだからこそか、彼は特に言及することなく「そうか」とだけ頷いた。 「ところで、今日は何する? したいこととか、行きたい所はある?」  彼はいつも僕の意見を優先してくれる。正直なところ、優柔不断の僕としては、意見を求められるのはあまり好きではない。  だから以前、黒羽さんは? と質問で返したことがあるのだが、彼は紳士然とした笑みで持って「俺がしたいことは、明日香がしたいこと。俺が行きたい所は、明日香の行きたい所だ」と全く参考にならない答えを寄越してきたものだから、仕方なく僕が考えるより他にない。  したいことや行きたい所がないわけではないが、黒羽さんとのデートで、と考えると選択の範囲が狭まるため、この質問にいつも僕は頭を悩ませていた。  映画は今、公開しているもので特に面白そうなものはなかったし、買いたい物も特にない……。  したいことや行きたい所を頭の隅から隅まで探し回っていると、彼が口を開いた。 「もし、特に行きたい所もなければ、よかったら俺の家に来ないか?」  珍しい彼からの提案に目を丸くする。しかしいい案が思い浮かばず困っていたところに、それは渡りに船だった。  僕はすぐに頷き『ぜひおじゃましてみたいです』と言葉を付け添えた。僕の返答に黒羽さんは口元を綻ばせ「じゃあ行こうか」と、まだコーヒーを飲み終えていない僕の手を引いて店を出た。  黒羽さんの家は、街から二十分ほどバスで揺られ、さらにバス停から五分ほど歩いた所にある閑静な住宅街にあった。 「ここが俺の家」  そう言って足を止めたのは、住宅街の中心にそびえ立つ高層マンションの前だった。自分の住む小さな社宅をいくつ重ねたらこの高さになるだろうと考えながら見上げていると、その途方もなさにくらりと目眩を覚えた。
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