だから何も問題ない

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 首を動かすだけの返答が使えなくなった今、どう返事をすべきか思いあぐねていると、黒羽さんがわずかに眉根を寄せた。 「もしかして、俺に名前を教えたくないのか?」  悲しげに問われ、僕は慌てて首を横に振った。黒羽さんは安心したのか眉間の皺を緩めた。 「じゃあ、教えてくれ」  しかし僕が名乗れないでいると、黒羽さんはハッとしたようにして言った。 「……もしかして、しゃべれないのか?」  労わるような問いに僕は逃げの糸口を見つけ、こくこくと必死に頷いた。すると彼は突然立ち上がり、部屋を出て行った。  置いていかれた僕は、黒羽さんの行動の意味を図りかねしばらく一人でおろおろとしていたが、すぐに彼は戻ってきた。そして僕に紙とペンを差し出した。 「店からもらった。よかったらこれに書いてくれないか」  彼の優しい笑みと行動力に気圧され、おずおずとそれを受け取った。しかし受け取ったものの、何と書いていいか迷った。  もちろん本名は書けないし、かと言ってすぐに偽名も思いつかず、僕は咄嗟に前の席のクラスメイトの名前を書いた。  女子のように可愛らしい字ではないのでばれやしないかと冷や冷やしたが、僕の心配に反して黒羽さんは「へぇ、明日香っていうんだな」と特に不審に思った様子を見せなかった。僕は心の中でほっと胸を撫で下ろした。 「明日香って呼んでいい?」  僕が頷くと、黒羽さんは口元を綻ばせた。 「俺のことは薫でいいよ。明日香は何を飲む?」  メニューを渡されたが、お酒なんか飲めるはずもなく、僕は『オレンジジュース』と書いた。 「明日香はお酒が飲めないんだな。でも、そんな感じする」  黒羽さんは嬉しそうに微笑んでから注文した。  筆談する中で、黒羽さんが僕と同じ十七歳で、市内の有名校に通っていることが分かった。てっきり自分より年上だと思っていたので、ひどく驚いた。  筆談が新鮮だったのか、黒羽さんはいくつも僕に質問をしてきた。  好きな色や好きな音楽、好きな男性のタイプなど……、こんなものを知ってどうするのだろうという質問の答えを、手首に軽い疲労感を覚えるくらい書かされた。  ようやく質問の嵐が止んだところで、僕はずっと疑問に思っていたことを訊いてみた。 『どうして、私をここに連れて来てくれたんですか?』
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