だから何も問題ない

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 おじさんを追い払ったのは単なる善意からだと片付けられても、その後お店に連れて来た理由が分からない。僕に対する丁寧で優しい接し方から、信じ難いが僕に好意を抱いているのかもしれないとも思ったが、何か裏があるのかもしれないという疑いも拭えなかった。  僕の質問に、黒羽さんは珍しくまごついた。この優しさの裏には何かあるのかもしれないとは思っていたが、こんなあからさまにうろたえるとは思っていなかった僕は、まさかの反応に少し驚いた。  やがて黒羽さんは意を決したかのように口を開いた。 「こんなこと言ったら不愉快に思うかもしれないが、その、明日香が俺の初恋の子に似ていて……」  僕の反応を窺うようにしてちらりと弱々しい視線が送られる。その目は、おじさんやスキンヘッドの男に向けていた冷たく鋭いものとあまりにも違い、本当に同一人物なのか疑うほどだった。  目を瞬かせる僕を気にするように視線をこちらに置いたまま黒羽さんは続けた。 「声を掛けようかどうしようか迷っていたら変なオッサンが明日香に近づいて行ったから、思わずあんな形で声を掛けてしまって……。それで明日香と話してみたいと思ってここに連れて来た。……なぁ、明日香」  ペンを持つ右手を包むようにして、黒羽さんの大きな手が重なった。心臓がびくっと跳ね上がる。 「今日あそこに立ってたのは、ナンパ待ちだったのか?」  右手の感触に戸惑いながら僕は頷いた。理由はどうあれ、ナンパを待っていたのだから嘘ではない。  黒羽さんはゆっくり一呼吸置いて言った。 「じゃあさ、俺にしといてくれないか。……俺と付き合って欲しい」  僕は息を呑んだ。  彼は本気だった。右手を包む手の微かな震えや僕を見つめる真摯な瞳から、彼の言葉が嘘偽りのない言葉だということは容易に分かった。  僕が女であれば、もしくは彼が女だったら、この告白に首を縦に振っていたかもしれない。  しかし僕らは男同士だ。はいとは答えられない。けれど、だからといってここで断るのはあまり賢い選択とは思えなかった。  密室で二人きりというこの状況だ。今までは優しかったが、彼の申し出を拒むことで、逆上する可能性だってあり得る。さっきは他者へ向けられていた凶暴な面が自分に向けられると思うと、心臓が凍りつきそうな気分だった。 「明日香……」
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