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逃げるか?
瞬間、まず頭に上がったのがそれだった。たいして強くもない俺が取れる選択肢としてはこれがベストだった。だが――
今、レジカウンターを挟んで俺の正面には小林さんが立っている。視界の隅に小林が入る。この状況に混乱しているのだろう、彼女は固い表情のままでそこに立っている。
――いかん。いかん。俺が彼女を守らなければ。
「……や、やめろよ。こ、こんなことして何になるんだよ」
なけなしの勇気を振り絞り、声を上げる。
「うるせぇぇぇ。ガキは黙ってろ」
おっさんは俺を睨んで、包丁を向ける。
剥き出しの出刃包丁が、天井の蛍光灯に照らされて鈍く光る。
「すいません」
即答だった。自分でもイヤになるくらいの小市民的反応だった。
「で、でも冷静になってくださいよ。こんな小さな店の売り上げなんてたかがしれてますよ。こんなことしてもリスクだけでリターンはないですよ」
しかし、はいそうですかと引き下がる訳にはいかない。ビビる気持ちを必死に抑え、へりくだりながらも、どうにか相手を落ち着かせようとしてみる。
「いいんだよ。リスクなんてどーでも。俺はなぁ、もう失うものなんて何もないんだよ」
「そ、そんなことないんじゃないですかねぇ」
「そんなことあるんだよ。いいか? 俺はこの前コンビニでレジ打ちしてる女の子に告白してフられたんだよ」
「え?」
途端、さっきまで、敵としていたおっさんが急に親近感が湧いてきた。
「俺にとってあの娘は全てだったんだ。だから全てを失った俺には、もう失うものなんてない」
「お、落ち着きましょうって。またいい娘に会えますって」
「うるさい。うるさい。うるさい。そんなことないって」
「そんなことありますって」
「うるさいのはお前の方だ」
「え?」
俺の横から冷徹な声が聞こえた。
聞こえた方に顔を向ける。
声の主は小林さんだった。
小林さんは、素早い身のこなしでサッとレジを飛び越えると、そのままおっさんの正面へ立った。
「小林さん危ないって」
「誰がうるさいんだてめぇ。いいから金出せって言ってんだよ」
おっさんは小林さんに向かって包丁を向ける。
――ヤバい。
俺はそう思った。
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