315人が本棚に入れています
本棚に追加
隣の男 1
低いガードの上を電車が走り抜ける。
駅のホームからアナウンスの声がひびく。視界のうちで線路が三本交差している。立っている歩道橋の真下を、いくつもガードを踏み越えてきた青と銀色の車両が通り抜け、駅へ到達する。斜め上は高架線が横切っている。シューッと高い音を響かせながらコンクリートの土台を走るのは、銀一色の車体だ。次に高架線の向こう側、他の線路のちょうど中間あたりを黄色い電車が走っていく。ここからは線路がはっきりみえず、車両だけが浮いているように思えなくもない。
三本の線路を走り抜ける電車の音にはパターンがあり、ずれたり、重なったりする。最大公約数という言葉が思い浮かぶ。いや、最小公倍数、の方か。線路沿いのビル工事の音とホームのアナウンスが、ときおりアクセントのように響く。
男は歩道橋のてすりでタバコをもみ消し、携帯灰皿に入れる。ここはすぐ下に踏切があり、高架の影で人目につきにくい。
仕事帰りにここでタバコを吸うのが好きだった。
今日は、早く帰れてよかった、と思う。
駅前の繁華街から路地に入る。小さな飲食店がずらりと並ぶ。幅一間ほどの脇道へそれても小さなレストランやカフェの看板がみえる。最近は洒落た店がふえたな、と思う。
鉄の階段を上った先の、アパートの二階の窓は、裏庭に生えるびわの木の葉に覆われてしまって、部屋はいつも薄暗かった。窓を開けると手に届くところにびわの実がなっている。大家が好きなだけ取っていいというので、いくつかもいでみたことはあるが、食べずにそのまま庭へ投げた。
また外に出て、近くの定食屋で焼き魚を食べた。空気は湿っぽかった。線路沿いの緑道を歩いていくと、前からやってきた自転車が攻撃的にベルを鳴らす。避けようとしてハンドルが当たり、なぜか怒鳴られた。
絡まれやすいたちなのかもしれない。
ガードをひとつ通りこし、三つ目で曲がったところのボーリング場へ行った。サウナつき、男性専用の銭湯が地下にあり、ボーリングの後に入るのがちょうどよかった。
靴を借りると端のレーンへ行く。2ゲームだけ投げて、そのあとしばらく窓際のベンチに座っていた。天井に抜けるような音が響く。ボールが転がり、ピンが崩れる音を聞く。
「ボーリングの音っていいね」
横から話しかけられた。何度かここで顔を見たことがある。自分と同じくらいの年齢だと思うが、何をやっているのかよくわからない男だ。自分と同じようにスーツを着て、電車に乗って都内へ出て、得意先回りをやっているのか。それともこの辺りの工場や会社で働いているのか。フリーターか。
うなずくと相手は「もう今日はやらない?」とたずねる。
「ああ、うん」
「これ、いらない? 間違ったボタン、押しちゃってさ」
炭酸苦手なんだ、といいながらスプライトの缶を持ち上げた。「もらってくれたら、俺はコーヒーを買う」
「じゃあ、払う」
「いや、俺が間違ったせいだから」
いいから、と手を振るので、スプライトをもらった。炭酸を飲んだのはひさしぶりだと思った。隣の男がこちらをみているのがわかった。意外に喉が渇いていて、スプライトを一気に飲み干す。
「このあと風呂に行ったりする?」と聞かれた。
「まあ、そのつもり……だったけど」
じゃあ、行こうよ。隣の男がそう言って立ち上がった。
最初のコメントを投稿しよう!