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一 谷中雅の新しい恋人
「ごめん雅・・・今晩、兄がくるんだ。映画、楽しみにしてたけど、本当に、ごめん・・・。」
朝、六時半、電話の相手は最近付き合いはじめたばかりの隼人だった。
雅はベッドからゆっくり起き上がると冷蔵庫から、水のペットボトルを取り出して南に面した窓を開けた。
部屋の中にたまった生ぬるい空気が、朝の澄んだ空気に洗われるように風が吹き込んだ。
「いいよ。仕方ない。また、今度行こうよ。」
「ごめん・・・」
「いいって、お兄さんと会うの、久しぶりでしょ。ゆっくり楽しんでおいでよ。」
雅はとても気遣って話したつもりだったけど、電話の向こうでは隼人がすすり泣いているようだった。
「隼人・・・どうした、泣いてるの?」
「雅・・・今から行っちゃダメ?」
「いいよ。おいで。」
隼人は5分もかからずに雅のマンションのチャイムを鳴らした。
「早いな。」
「マンションの前にいた」
「どうして」
「会いたかった。どうしても。」
「そう。」
隼人は雅の胸に顔を埋め強く抱きしめた。
雅もまだ靴を履いたままの隼人を一度抱きしめたあと、軽々と抱き上げ寝室へ運んだ。
「どうして泣いている。」
「映画に行きたかった・・・」
「また行けるよ。」
雅は隼人の髪を優しく撫でると唇を重ねた。はじめは優しく、何度も泣いている隼人の顔を見ながら、そして強く呼吸が止まるほどに・・・
隼人もいっそ、このベッドの上で呼吸が止まってしまえばいいのにと・・・
神様、この命を、今この場で奪ってくださいと・・・何度も、何度も願った。
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