1人が本棚に入れています
本棚に追加
/27ページ
0
自宅に置かれたボロボロのオルガンを演奏する彼女は、それはもう上手と呼べるシロモノではなかった。どんなに美点で飾ろうとしても、「爪がきれい」くらいとしか褒められる部分がなかった。
音楽の良し悪しに疎い僕でさえ理解できる、この決定的な「へたくそ加減」は前衛芸術の世界では評価されるのかもしれない、とさえ思いいたることがある。
これなら鍵盤の上に魚でも水揚げした方がマシだ。心底、そう提案したかった。
しかしその一言に踏み出せないのは、鍵盤をたたく彼女は何よりも楽しそうな顔をしているからなのだ。
「君って、本当に楽しそうな顔でピアノを弾くね」
「そうかしら」
「なんか理由でもあるの?」
「んー、そうだね。強いていうなれば」
ちにみにこれは美点には数えられない。ピアノと彼女の表情に因果関係はまったく認められない。なぜなら
「宇宙に触れている気がするから」
彼女の視界にピアノは映っていないので。
窓の外で猫が鳴いて、石段を飛び降りた。
わりと寒い5月の昼間だった。葉桜が風に揺れて、室内にかかるまだらの太陽を上下させた。それは小さな光の粒のようで、しゃんとした姿勢でピアノを演奏する彼女を、妖精か何かが取り巻いている様に見えなくもなかった。
耳栓って、コンビニに売っているだろうか。僕は財布を取り出しながらそう思った。
最初のコメントを投稿しよう!