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 自宅に置かれたボロボロのオルガンを演奏する彼女は、それはもう上手と呼べるシロモノではなかった。どんなに美点で飾ろうとしても、「爪がきれい」くらいとしか褒められる部分がなかった。  音楽の良し悪しに疎い僕でさえ理解できる、この決定的な「へたくそ加減」は前衛芸術の世界では評価されるのかもしれない、とさえ思いいたることがある。  これなら鍵盤の上に魚でも水揚げした方がマシだ。心底、そう提案したかった。  しかしその一言に踏み出せないのは、鍵盤をたたく彼女は何よりも楽しそうな顔をしているからなのだ。 「君って、本当に楽しそうな顔でピアノを弾くね」 「そうかしら」 「なんか理由でもあるの?」 「んー、そうだね。強いていうなれば」  ちにみにこれは美点には数えられない。ピアノと彼女の表情に因果関係はまったく認められない。なぜなら 「宇宙に触れている気がするから」  彼女の視界にピアノは映っていないので。  窓の外で猫が鳴いて、石段を飛び降りた。  わりと寒い5月の昼間だった。葉桜が風に揺れて、室内にかかるまだらの太陽を上下させた。それは小さな光の粒のようで、しゃんとした姿勢でピアノを演奏する彼女を、妖精か何かが取り巻いている様に見えなくもなかった。  耳栓って、コンビニに売っているだろうか。僕は財布を取り出しながらそう思った。
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