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とある電車の
とある電車のとある車両に、とある若くない夫婦がいました。旅行に行く途中か、もしくは旅行帰りだったらしく、女性は大きめの黒い鞄を持っています。茶色い髪の毛を固めた男子高生たちや、遊びに出掛るらしい子供たちのいる喧騒の中、その落ち着きのある夫婦は少し浮いて見えました。男性は外の遠くて青い空を覗いてから、軽く胸元に風を送る仕草をしました。
「暑くないのか。」
男性は女性に言葉をかけました。確かに、半そでの人が多い中コートを羽織っている女性は、見ている方が暑くなる格好でした。春らしいパステルカラーの、薄手の服を着た男性と、茶色いコートを羽織る女性の組み合わせは、些か不思議に思えます。
「夜は冷えるから。」
男性の言葉に対し、女性は苦笑いしてそう答えました。今朝、天気予報のアナウンサーが「夜から肌寒くなる」と言っていたのを思い出したのか、男性はもう一度外の遠くて青い空を覗いてから頷きました。
「だったら早く帰らないと。この格好では寒いな。」
「上着があるから大丈夫よ。」
男性が心配していると、女性は持っていた鞄の中を見せました。中には男物のコートが入っているようで、男性は「ありがとう。」そう言って微笑みました。
「いつもの事でしょう。」
女性も、男性と同じように、皺のある顔をくしゃりとさせて微笑みました。
短い会話を終えると、ついに電車を出るまで、夫婦は沈黙のままでした。電車の中でまた、茶色い髪の毛を固めた男子高生たちや、遊びに出掛るらしい子供たちの楽しそうな会話が始まり、小さく聞こえていたクーラーの回る音すらも大きく聞こえだしました。
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