1 喪失の部屋

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 男は俺を睨みつけてしばらくドアを開けて出て行ったかと思うと、トレイに簡素な食事を持って戻って来た。彼からの悪意は感じていたが、しかしこの生活において三食は保障されている。別に食事に毒が入っているわけでもないし、トイレに行くのもひと言告げれば構わなかった。ただ、この家から出て行くことは許されない。だけど記憶すらないこの頭では、一人逃げ出してもどこへ行ったらいいのかなんてわからない。そのことは男も承知しているのだろう。乱暴に手足を縛られたりすることはなかった。      目が覚めて自分が記憶を失っていることに気が付いたのは、先日のこと。病院の白い部屋この男がじっと俺を見つめているのを見た時だ。ここはどこで俺は誰、男は眉をひそめて俺を呼ぶ。しかしその名に聞き覚えはない。その事実を男は疑ったが、何度聞かれても俺は自分をしらない。どういった経緯でいまここにいるのかさえも……男は何度も何度も聞き覚えのないその名前で俺を呼ぶ。      そもそも自分自身だけでなく俺を見つめていた男の名も知らなかった。なぜか彼は常に不機嫌な顔をしているから、言葉をかけるにも躊躇わられたのが大きな理由。彼の名前を聞くタイミングを逃してちょうど一か月がたつ。会話をしたいと思ったが、口を開くと彼が不機嫌な顔で俺を睨みつけるので、最近では最低限のことしか言葉を交わさなかった。    それでも彼は毎日俺が目を覚ますと問うのだ。    今日もまた何も思い出さないか、と。    彼のこだわるその過去には一体何があったのだろう。    ◇   「……出かけるぞ、ついてこい」  それは病院からここに連れて来られて以来の外出だった。玄関には三足の靴、この家には俺と彼の二人しかいないのに。       
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