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 ひと気のないホームに降り立つと、真夏とは思えないひやりとした空気が身体を包み込んだ。  けれど、ヘッドホンを外したとたん、耳を聾(ろう)するほどに押し寄せてきた蝉の声が、井上穂高(ほたか)に確かに今の季節を教える。  昨夜から沈黙したままの携帯を開いて、時刻を確認する。午前七時十二分。  東京駅始発の特急列車に乗り、海と並行するように移動して約二時間。  かすかに潮の香りが混じるまだ薄青い陽射しのなか、ため息をひとつ落として、カーゴパンツのポケットに携帯を乱暴に押し込む。それから、一緒に降りたまばらな背中たちを追って、駅舎に続く跨線橋に向かった。    それにしても、まさかエスカレーターなどという気の利いたものまでは期待していなかったが、片側だけで優に五十段はあるだろうむき出しの階段を見上げ、早くもうんざりする。思わず握った手すりは錆で赤茶けて、少しでも力を入れたらぼろぼろとはがれ落ちてきそうだ。    潮風のせいで風化が進むという紙のうえでの知識など、こんな圧倒的な実感の前にはひとたまりもない。  ここ最近の運動不足がたたり、早くも上がる息を噛み殺しながら、何とか鉄橋を渡りきる。  と、小さな駅舎の外、ロータリーからこちらに向かって手を振る長身が目に入った。背後に、見覚えのある紺色のワゴン車も停まっている。  ほーたーかー、とやたらと響く大音声に、前を歩いていたセーラー服姿の少女ふたり組が、ちらちらと興味深げな視線を送ってくる。偶然同じ車両に乗り合わせていて、車内でも何度か目が合うと、何やら楽しそうに耳打ちしていた。
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