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父親の記憶
スズ自動車。そう書いてある年季の入った看板を孝志は箒ではたいていた。
「ったく蜘蛛の巣くらいとってくれりゃいいのに…」
事務員の女性、川田がそそくさと蜘蛛はちょっと、と母親に言っているのを尻目に作業場に出ようとすると母親にアンタちゃちゃっととっちゃって!と言われたのだった。何故自分が、という気持ちを押し込んで箒を勢いよく動かした。
孝志の家は自動車整備の会社を営んでいた。小さな会社だ。幼い頃から整備士の父親の背中ばかり目にしていた。なんとなく自分もこの父親の後を継ぐんだなという自覚はあった。やりたいことと言えばこれといって何もなかった孝志は自然に地元の高校を出ると、専門学校へと通った。そこまですんなりと道を通ってきたのは、父親の言葉が忘れられなかったからだ。
『父ちゃんはな、車のお医者さんだからな』
油まみれの父親は何が嬉しいのか、楽しいのか、不明であるが、幼い孝志にそう答えたのだ。何度も。人生について特になにを思う訳ではない孝志が、父親のその言葉だけはひっかかっていた。父が油まみれになっても仕事を続ける理由が、この仕事にはあるのでは。年齢を重ねるごとにそう思うようになり、自然と孝志は自動車整備士への道を歩んでいたというわけだ。
専門学校を出てから、実家ではなく、別の会社へ就職した。まだ父親も現役であったし、会社も細々とやっていけていたように認識している。何より、他所で勉強するのもいいだろう、と親父の提案でもあった。そもそもあの人は、孝志が自分の後を必ずしも継がなくてもいいという考えの人であった。
『別に、お前は好きなことしていいんだぞ』
お人よしな父親はそう言ったが、孝志は何も強制されたからとか責任感からだとかでこの道へきたのではない。ただただ純粋に、父親がこの仕事にのめり込む理由が知りたかったという好奇心・知的欲求のようなものだった。そして、もう一つ、気になっていたことが孝志にはあった。その言葉を初めて口にしたのは、彼が病院へ運ばれた時だった。
煙草も酒もやらない父親が、病院の簡素なベッドで横たわるのを見て自然に拳に力が入った。
「父さん。俺、ずっと聞きたいことがあったんだ」
もう目を開けることはない父親の顔は穏やかだった。
「父さんが車の医者なら、父さんことは、だれが診るんだ」
誰も応えることのないその問いかけは、白い病室に溶けて消えた。
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