247人が本棚に入れています
本棚に追加
名前は忘れたのに、別れ際のことはよく憶えている。
当時愛想よくしていたのは店の上客だったからなのに、私が惚れ込んでると信じ切っていて、しつこくつきまとってきた。
別れを切り出した時の、ぞっとするくらいの着信とメールの量を思い出し、急にまわりのざわめきが遠くなる。
「あ、あの。私ちょっとお手洗いに行ってきます」
メニューに夢中であまり聞いていない山梨さんに言い、私は鞄をつかんで逃げるように席を立った。
店の外に出て、真っ黒の引き戸を振り返ると、それだけで寒気がした。
「なんでこんなところにいるのよ…」
信じられないけど、どう見ても名前を忘れたあの男は従業員のようだし、店に戻れば気付かれるのも時間の問題だ。
かといって、山梨さんはきっとしばらくここを楽しむはずだから、戻らないわけにもいかない。
その時、真後ろで引き戸があく音がした。
びくっとして振り返ると、うろんな目の朔がこちらを見ている。
「なんで外にいるの。というか、なんで急に様子がおかしくなるの」
朔は私の前に立ち、ため息まじりに言う。
席を立つ時、多少取り乱したとは思ったけど、隠せる範囲だったと思っていた。
「……ちょっとね」
言いたくない私がそっぽを向くと、朔がため息をついて、もう一度店のほうを見た。
最初のコメントを投稿しよう!