ー Undercover ー

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 叩き潰されてそのまま干からびた虫みたいに壁に張り付いている後輩を、面白そうに眺めていた新庄だったが、ふと何か思い出したように眉を上げた。 「そう言えばお前、友達の法要には行けたのか?」  一瞬、胸の奥で小さく心臓が跳ねた。穏やかに脈動していた心筋に、鋭く走った冷たい痛み。思わず顔をしかめてしまいそうになったが、奏真はどうにか表情を崩さず平静を保ってみせた。人の心理に敏感な先輩に見透かされないよう、細心の注意を払いながら微笑む。 「線香あげてきました…久しぶりに、近状報告してきましたよ」 「そっか…なぁソウマ、お前まだ自分の責任だなんて、思ってないよな?」 「え?」 「いや…見てるとお前さ、真剣に付き合ってるクセに女が本気になると別れるから、まだあの件を引きずって…ぁああっ、ワリっ、何でもない」  新庄は何か言いたげだったが、一方的に途中で会話を断ち切った。後輩の頭をくしゃっと一撫ですると、ポケットに片手を突っ込んで踵を返す。 「んじゃ、明日から頑張れよ~」  ヒラヒラ手を振りながら遠ざかる背中に向け、奏真は姿勢を正すと、丁寧な一礼で見送った。新庄が"あの件"以来、ずっと自分を気にかけてくれているのは知っている。大した用もないのに部屋に来ては後輩をイジメて遊ぶのが、彼なりの気遣いだということも。まぁ、かなり屈折した愛情表現ではあるけれど。 「…よしっ、やるか……」  一つ息をついて、奏真は体を翻した。通行人の物珍しそうな視線の中を、部屋に向かって歩いてゆく。今はとにかく仕事に集中。明日からは国内有数の大企業・JIT株式会社で営業マンを演じなければならないのだ、色々と事前学習しておいた方が良いだろう。まずは当面の職場となる企業について、奏真は詳しく調べてみる事にした。  今回の極秘潜入捜査、絶対に失敗するわけにはいかない。  官庁よりも始業時間が遅い為か、奏真が秘書に案内されて部長室に通された時、会社にはまだ半分ぐらいの社員しか出社していなかった。出されたお茶で緊張した喉を潤し、ふと大きな窓から外を見てみると、緑豊かに整備された広大な敷地に建つ超高層ビルに向かって、幹線道路から人の列がゆったりと流れてきている。その光景はどこか、大学のキャンパスに似ていた。 「――お待たせして申し訳ない」  豪華な室内に、低い声が反響した。反射的に立ち上がった奏真に詫びを入れたのは、現社長の甥でもあるJIT社の営業部統括部長だった。上場企業の役員らしく女性秘書を従えて、ワックスでピッタリと髪を撫でつけた中年部長は、若い刑事の対面に立つなり威厳を滲み出しながらも丁寧に腰を折った。 「営業部統括部長の宮前誠之助です」 「警視庁・サイバー犯罪課の三堂奏真です。今日からは"三木奏真"と名乗らせて頂きます。どうぞよろしくお願いします」  無礼のないよう一礼した若い刑事に、部長はソファを進めながら何やら秘書に目で合図した。 「どうぞお掛け下さい。刑事さんの事は社長から聞いています。もうご存知とは思いますが、今回、警察がハッキング事件で潜入捜査を行う事は、社長と役員の一部、私とこの秘書を含めて5人しか知りません。それと、サイバー攻撃の件は周知の事ですが、研究棟のハッキングの件は伏せてあります。開発チームメンバーと管理部にも口止めしていますので、刑事さんも捜査は慎重に願いますよ…松岡、例の物を刑事さんに」  一切の無駄がない俊敏な動作で、オフホワイトのタイトスーツを着た美人秘書が、黒いお盆をテーブルに乗せた。見れば、紐付きの名札入れとICチップが組み込まれたID証が用意されている。 「これは刑事さんの社員証です。認証が必要な場所に入る時にはこのIDが必要になります。あと、偽の履歴書も人事部に提出してあります。今月はちょうど人事異動の時期でしてね、刑事さんは中途採用という事になっていますが、社内も入れ替わりでバタバタしていますので怪しまれる事はないでしょう」 「お気遣いとご協力、ありがとうござます」  社員証には既に、『JIT本社・営業部・営業2課 三木奏真』と印刷されている。営業2課がどんな所なのかさっぱりわからなかったが、ひとまず疑問は頭の端に置いておき、社員証のひもを首に通すと、奏真は矢継ぎ早に切り出した。 「さっそくですが部長さん、少々確認したい事があります」
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