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ー Undercover ー
後から考えると、その日は確かに虫の知らせとも言うべき不吉な前兆が多々あった。
朝何気なく手鏡を持ったらいきなりヒビが入ったし、ゴミ出しの時には黒い猫が目の前を横切った。バス停では困っているお婆ちゃんと話しているうちバスを1本逃してしまい、ようやく辿り着いた職場の玄関で鳥のフンが肩に命中。とどめにスーツを洗っていた給湯室で、よろけた経理課の女子に生クリームたっぷりのキャラメルマキアートをぶっかけられる始末。普通、これだけ不運が重なればどんなにポジティブ思考の人間だってヘコみもする。
だが三堂奏真にとってはこの程度、大したハプニングではなかった。
「おはようございます」
軽快で澄んだテノールの声音が、広いオフィスに反響した。正面の壁一面に広がる巨大な液晶モニターの前には、課長のデスクが一台と、壁側・窓側にそれぞれデスクが4つ向かい合わせに並んでいる。
課長の姿はなかったが、とりあえずいつも通り一礼してから、奏真は壁側のデスクに向かった。キャラメル臭漂う紙袋を脇に置いて座ろうとしたら、
「三堂センパイ、おはようござ……ん?」
対面の席から、後輩の久保が不思議そうに覗き込んできた。どこぞのアイドルみたいにふわふわの茶髪に大きな目が印象的な新人は、ほけっと口を開けたまま首を傾げている。
「センパイ、な~んで制服なんか着てるんスかぁ?」
「ああ、これか? うん、ちょっとな…」
奏真が答えた途端、室内の6人全員が一斉にパソコンから顔を上げた。同僚達の訝しげな視線が、肌にチリチリと突き刺さる。
「三堂、お前なんでそんなモン着てんの?」
「倉さん、今日って誰かの退官式だっけ?」
「記憶にねぇな~、最近俺、物忘れがヒドくてよぉ」
「オレぁ、五十肩と頻尿だな。医者に行っても治りゃしねぇ」
「…あっ、わかった!」
突然の大声に、思わず奏真は肩をビクつかせた。一体何がわかったのか、窓際のデスクから同期の石崎が意地悪そうな笑顔を向けてくる。
「三堂、さ~てはお前、昨日家に帰ってないんだろ」
「いや、帰ったけど」
「隠すなよ。どうせ朝まで彼女とお楽しみだったんだろう? そうだよなぁ、同じ服で出勤はできないもんなぁ。あ~ヤラシ~」
「はあ!? やっ、ちょっ、違うって!」
石崎の言葉に、同僚達が「あ~」と声を揃えて苦笑した。男ばかりの部署で唯一の女性である羽田るり子が、頬を赤くしながら胡乱に見つめている。
「おい石崎、変な事言うなっ。あの、るり子さん、そんな目で俺を見ないでよ」
ただでさえ変な誤解が充満しているのに、空気の読めない後輩がいやらしく笑った。
「そういう事っスかぁ、三堂センパイもハシに置いとけないなぁ」
「オメェはアホか、それを言うならスミだろスミ」
最年長の倉本が、嘆かわしげに首を振った。けれどそんな年長者の憂いに気づく様子もなく、ニヤニヤしながら久保が横目で見てくる。
「センパ~イ、ちゃんとシャワー浴びてきましたかぁ?」
「だからっ、違うって言ってるだろっ」
「もぉ~、センパイってば照れちゃって」
奏真としては極めて真剣に答えているのだが、否定すればする程信用してもらえない。その矛盾を理不尽に思いながら、要点だけをかい摘んで説明した。
「ほんとにそんなんじゃなくて、スーツが鳥のフンでダメになったから、総務課に行って着替えを貸してもらったんだよ。裸で過ごすわけにいかないだろ」
「えッ、バードうんちがクリーンヒット!?」
叫び声が反響したのと、皆が物悲しそうな目を向けきたのはほぼ同時だった。もちろん気分の良い出来事ではなかったが、奏真はそれほど不運だとは思ってない。むしろ朝から可愛い猫を見かけ、困っていたお婆ちゃんを目的地行きのバスに乗せてあげる事ができ、経理課の華奢な高梨さんの転倒事故を未然に防げたのだから、スーツの1つや2つダメにしたぐらい安いものだと思っている。
とはいえ、普段着慣れていない上に一回り小さいサイズしかなく、首回りがどうにも苦しいこの制服はいただけないが。
「山勘や宝クジはいつも外れるのに、鳥クソは当たるって、三堂センパイ朝から最悪っスね!!」
奏真は深いため息をついた。
「最悪なのはお前だよ」
出勤したばかりなのに、どっぷり疲れた。重たい息つきながら、奏真はパソコンを起動させた。スーツは帰りにでもクリーニングに出すとして、ひとまず思考を仕事モードに切り替える。画面の共有フィルダを開き、日報に記載されている連絡事項を確認。今日も部署宛の相談・要請・報告がてんこ盛りだ。あまりの多さに同じ班のベテラン二人は、あーだこーだと文句を垂れ流している。
23歳のフレッシャーから残り3年で定年退職の大御所まで、幅広い年齢層で構成されたチームだがみんな気のいい連中だ。朝の教室みたいに騒がしい同僚達の声をBGMに、奏真が報告を読んでいると、
「ねぇ三堂センパイ、センパイの彼女ってどんな人なんスかぁ?」
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