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「田宮一郎さんですね」
新宿のホテルのロビー。田宮一郎と呼ばれたその男は腕時計を眺め、そして女を見上げた。約束の時間の10分前だった。
「それは昔の名だ。今は降魔一郎(ごうまいちろう)と名乗っている。そのほうが箔がつくし、冗談っぽくていいだろう?」
女はムッとした表情で男を見下ろした。一郎はできることならその姿を暫く眺めていたいと思い、いやらし視線を隠さずに女に送り続けた。女はその視線に耐えながら一郎を見下し続ける。
「望月茜と申します」
ゆっくりと低い声で女が名乗る。女は気品と気丈を身にまとっている。気弱な男であればすぐに立ち上がり深々と頭を下げてしまうだろう。だが一郎は礼儀正しく会釈をした女の肩から前に滑り落ちる長く黒い髪をじっと眺めていた。
「いい女だ。容姿も気立ても申し分ない。頭を下げても相手に媚びないところがいい」
初対面の男に何故そこまで言われなければならないのかと思いながらも女は気丈に振舞った。
「私のこと、お嫌いですか?」
田宮一郎は笑みを見せた。卑屈にである。
「いいじゃないか。よろしい、話を聴こうじゃないか」
一郎は女に座るように勧めた。
「望月茜……、どこか違和感のある名だ」
その名は本名ではないと一郎の目を訴えていた。
「私のこと、お調べになったのですか?」
男を首を振りながら言い放つ。
「だめだ。つまらん事を聴くな。ここに何をしにきた。俺に何を求めてきた。それがわかっているなら、そんな質問は愚直であるか、愚弄であるか、或いはその両方だ。俺を試したいのなら、もう少し趣向を凝らしてもらいたいものだな。目を凝らすように」
男の視線があらぬ方向に向く、女はたじろいだ。
「あなたには何が見えているの?」
「別にたいしたものじゃないさ。ただ、俺にはアレが見えているだけだ」
男の視線は女の顔よりも少し上に向けられている。それが何を意味するのか。女は想像し、鳥肌を立てた。
「名はどうでもいい。ただ、嘘はいけない。そうだな。俺が名をつけてやろう」
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