噛み痕

噛み痕 Episode1

「それって私に対する哀れみなわけ」
　ホテルの一室。高級とはいえないまでも、手入れのよく行き届いたツインの部屋。男はベッドに横になったまま煙草をふかしている。
「ああ、そうとも。俺はお前に同情をする。それを哀れみと言うのなら、そうなのだろう」
　女はシーツに身を包み、ベッドに腰をかけている。シーツから床に白く細い足が伸びている。女は男に背中を向け、視線は男に向けられていたが、その視界には煙草の煙しか入っていない。
「哀れみなんか……いらないわ」
　女の黒い髪を眺めながら男は身を起こし、灰皿に煙草を押しつけ火を消すも、女がどんな表情をしているのかを覗くこともなく、またベッドに横たえた。

「いらんと言うならそれでいい。無論返す必要もない。ただ俺は誰にでも同情するし、誰にでも憐れむ。運の悪い奴、要領の悪い奴、頭の悪い奴、欲の深い奴、欲のない奴、身体が不自由な奴、精神が病んでいる奴、不治の病に苦しむ奴、理不尽な暴力を受けている奴。数えたらきりがないし、書き連ねる価値もない。俺はそうして生きてきたし、これからもそうだ。どうだ。そんな俺を、お前は憐れむことができるか？」　女は口を真一文字に結び、いよいよ憎悪の目で男を睨み付けた。
「おいおい、そんな顔をするなよ。哀れな女の怒った顔ほど、俺を興奮させるものはない」
　男に対する殺意が、形となって女の頭の中を駆け巡った。しかし、たとえ枕の下に刃物や銃を隠していたとしても、この男を殺すことなどできないだろう。女は自分の非力さに身を震わせた。
「あなたはそうやって人を、いえ世間を見下して生きてきたというの」
　男は面倒くさそうな顔を一瞬見せて、半身を起こし、ベッドに面した壁に寄りかかる。
「興ざめだな。簡単なことだ。世間は俺を見ていないし、だから俺も世間を無視する。世間は俺を見下し、ときに同情なんかもする。だから俺は世間というやつを見下すし、同情もする。それで折り合いってもんがつくのさ。お前はいったい、今まで何を見てきた」