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「いないなぁ……」
外国人の女性客を探しながら、何気なく老夫婦を眺めていたその時、一台の車が駐車場を出て行った。街に向かうのか、白いクラウンが緩やかな傾斜の道路を国道方向に下っていく。
運転席でハンドルを握るのは、顔半分が隠れるぐらい大きなサングラスをした黒人の女性。キツイ巻き髪が印象的な彼女の横には、同じくサングラスをかけた男が乗っている。やせ型で、口髭を生やした白人の男。ひょっとしたら例のお客さんで、宿泊を諦めて街に降りていったんだろうか。もう一度辺りを見回したが、やはり女性の姿は見当たらない。
「うっ、寒い……よし、戻ろっと」
眼下に広がる北の海から、冷えた風が吹きつけてくる。晴天低温は北海道の春の特徴だ。灼熱の太陽がギラギラと大地を焦がすマイアミを懐かしく思い出しながら、ハルが旅館に引き返したそのとき。
「……ん?」
ふと、駐車場の脇に立つ人影に気がついた。
黒いコートを羽織った長身の影は、地面においたボストンバックの隣に佇んで、天高く泳ぐ鯉のぼりを見上げている。この時間ここにいるということは、写真を撮りに来たか、早く着きすぎた宿泊客のどちらかだろう。ハルはゆっくりと歩み寄りながら声をかけた。
「あの、すいません。今夜ご宿泊のお客様ですか?」
鯉のぼりを見上げていた人影が、ピクリと反応した。風にあおられた桜の花びらが舞う中、蜃気楼のように佇む人影に向けてハルは丁寧に告げた。
「チェックインは15時ですが、どうぞ気にせず中へお入り下さい。ここは寒いですから館内でお茶でも――」
人影が、ゆっくりと振り向いた瞬間。
「――ッ!!」
ハルは極限まで目を見開いた。
一瞬、息が止まる。
これは、願望が見せる幻か。
それとも幸せな悪夢か。
存在するはずのない人が、
もう夢でしか会えなくなった彼が今、
目の前に立っている。
最後に別れた時と同じ、綺麗で優しい微笑を滲ませて。
「ぁ……あ、ゃ……ぅそ……」
震える心と共鳴するかのように、漏れた声は衝撃と困惑で揺れていた。
「そ、そんなはず……ない……」
きっとまた、夢を見ているのだ。
「そんな……だって……だってデレクは……」
幾度となく繰り返される、幸せで残酷な悪夢。
ネクタイごと胸の十字架を握りしめて、ハルは今ある光景を否定するように首を振った。
これは夢だ。
目覚めると、そこにあるのは見慣れた部屋の天井と彼がいない現実。
夢から覚めた後に訪れる途轍もない寂しさと恋しさを、この6年間嫌という程に思い知らされてきた。
だからこれも、いつも見る悲しい夢。
全てを懸けて愛した彼はもう、この世にはいないのだから―――
「……ハル」
大きくうねる鯉のぼりの下、背筋を伸ばして凛と佇む長身の影は、懐かしい声で名を呼んだ。少し長めの前髪から覗く切れ長の瞳を眩しげに細めて、幸せそうな笑みを浮かべている。
柔らかい太陽の陽射しを浴びて尚、永久凍土のような冷気を帯びる体には神聖な気配が漂い、洗練されたその麗貌は、まるで山の神に生命の息吹をふき込まれた桜の化身のようだ。
「……ハル……ようやく君に会えた……」
愛しい声が鼓膜を撫でた。上質のチェロを思わせる声音。涙でぼやけた視界に映る声の主を見返して、ハルはすがるように強く十字架を握りしめた。
「ウソだ!」
沸き立つ想いが声を震わせる。熱い涙が一気に溢れて頬を伝うのを感じながら、ハルはそこに映る光景を否定した。ゆっくりと歩んでくる黒いコートをまとった長身の影―――デレクを見つめ、恐怖と興奮で打ち震える。
「違うッ……これはッ、幻なんだッ……!」
幸せな悪夢を振り払うように、ハルは頭を振った。けれど、視線の先にはマイアミの海を思わせるトルコブルーの瞳が、確かにこちらを見つめている。
「ハル……」
「騙されないっ」
幻聴を断ち切るかのごとく叫んで、ハルは泣きながら愛しい顔を見返した。6年の歳月が流れても色褪せない麗貌に向かい、声を荒げて想いをぶつける。
「もうイヤだッ、やっと思い出にできたんだ! デレクがいない世界でなんとか生きようと頑張ってきたのにッ、どうして今頃こんな幻見せるんだよ! デレクはもういないッ、二度と会えないのにッ……」
「ハルっ」
「ぅんっ!?」
悲鳴のようなハルの声を塞いだのは、柔らかな唇だった。あまりに唐突で、乱暴のキス。刻印を押すかのように口づけた後、名残惜しそうにそっと離れたデレクの顔には、触れたら崩れそうなぐらい脆い微笑が滲んでいる。
「幻じゃないっ。オレは、ここにいるっ……!」
「んぅっ」
再び重なったデレクの唇から、甘やかな熱が伝わってきた。角度を変えて何度も優しく重なり合う濃厚な口づけ。そっと離れゆく愛しい唇を追いかけながら、ハルは涙に濡れた視線を上向けた。
「……デレク……?」
握りしめた十字架の下で、心臓がドクンドクンと強く脈打っている。夢か現実かもわからないまま、ハルは静かに問いかけた。
「ホントに……デレク……?」
ハルに答えたその声は、穏やかで、優しく、微かに震えていた。
「ああ、オレだ……ハル!」
ギュっと強く抱き締められたのと同時に、甘やかな香りが鼻腔を抜けた。記憶の彼方に埋もれていた、デレクの匂い。骨が軋むぐらい抱きしめてくる力強さと温もりが、じんわりと体に染み込んでくる。
「君を想わない日はなかったっ……この日の為に生きてきたんだっ、あの日からずっと……!」
「あ……ぁ、ぅ……うっ、ぁぁあぁあぁ……!」
耳元で喘ぐように呟くデレクの声に、自分の嗚咽が重なった。6年間、胸の中に押し込めてきた感情が、濁流のように奥底から込み上げてくる。身を切られるような寂しさや、狂いそうになる程の悲しみ、いっそ死んだ方が楽だと思えるぐらいの喪失感を全て吐き出す勢いで、ハルは子供のように声を上げて泣いた。
「ぁああぁああッ、ぁぁああぁぁあッ」
「ハル!」
強く抱きしめてくるデレクにしがみ付いて、ハルは涙でぐしゃぐしゃの顔を空に向けて号泣した。細身だけど逞しく鍛え上げられた背中を掻き毟るように抱き返し、何度も愛しい人の名前を叫ぶ。
「ぁあああっ、デレクっ……デレクゥゥゥゥ!!」
「ハルっ……ずっとこうして君を抱きしめたかったっ」
どこか苦しげな声が、耳に優しく響いた。安堵の息をこぼして、空白の時を埋めていくかのようにデレクが言う。
「君と別れてから何度もこの瞬間を夢で見た。夢の中で君に触れて、目覚めると君がいない現実に打ちのめされた……それでも戦い続けることができたのは、必ず願いは叶うと信じていたからだ。湖畔で別れたあの時から、もう一度君に会うことが、オレの生きる目的になった……ハル……ずっと君を想って生きてきた」
「俺っ、俺もずっとっ……ずっと、デレクに会いたくてっ……けどデレクはもうっ、死んでしまってっ……俺はっ、ひとりでっ……!」
もう言葉にならなかった。伝えたい事がたくさんある。聞いて欲しい事がいっぱいあるのに、想いが詰まって言葉が出てこない。どのぐらいデレクの腕の中で泣いていただろう。背中を撫でるデレクの手の優しさを感じながら、ハルは甘やかに香る首元に顔を埋めた。
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