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【コト】
置かれたロックグラス。
「ジントニックが飲みたい気分の時はどうしましょうか」
「じゃあ、次からは貴方のオーダーを待ちましょう」
1:00すぎ。店を閉めて寄るから、来るとしたらこの時間だ。店内はテーブル席に3人のグループ、それだけだった。別に構わないのだろう、この店は利益をあげるために存在しているわけではない。
「どうでした?ゆきちゃんは」
「わたしの名前が沢木だと、バレました」
片方上がる眉。
「吉川がらみで、何かあったようですね」
「ええ、ありました」
磨かれるグラスと布がたてる摩擦音とジャズ――今日はビル・エヴァンス。ボソボソと言葉ではなく音にしか聞こえてこないテーブル席の人声。わたしにとって拠り所であったこの場所がとても遠く感じる。
「なにやら、落ち込んでいますか?」
「ふっ」
この男に隠し事など無意味だ。わたしの浮かべる表情ひとつから百を読み取る洞察力。だから、笑うしかない。
「『普通』をやりこなすのは、思いのほか大変です」
「私は普通であった時間が無い。興味はありますが、私にとっては「こちら側」が普通なのですよ」
「……そうですね」
この男が解決してくれると思ったのだろうか。宏之がくれる深い愛情にくらべ、わたしの気持ちは独善的すぎる。おまけに凶暴で制御不能だ。突然わきあがる征服欲。涙がこぼれたとたんに、ふきだす加虐心。
こんな愛され方を宏之は望んでいるのだろうか。
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