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「あら、こんばんは」
あの日の印象そのまま、相変わらず美人としかいいようのない人はカウンターの向こうで微笑んでいる。逢わない方がいいのかもしれないと言われた。でも電話をしてとも言ってくれた。
店内の男達がいっせいに俺を見る。昔から見慣れた視線を臆することなく受け流し、はねのけ、まっすぐ沢木さんの前に進みカウンターに座った。
「ゆきちゃん、何をのみますか?」
「じゃあ、ビールにします。今日桜沢さんは?」
沢木さんは悪戯をしかけられた子供のように少し驚いた後ニヤリと口角をあげる。そんな含みを持った笑みでさえ色が滲む。
今のやりとりで、男達の視線がぐったり萎えたのは予想どおり。あんたらにかまう時間も体も、今の俺にはないんだよ、悪いな。
「身元がわかりました」
「少し時間がかかりましたね」
冷たいビールを呷るとほっとする。梅雨明けのこの時期、特にビールが旨い。
「案の定、フリーライターでした」
「……肥溜めの亡霊が生きる者に悪さをする」
黒く光る漆黒の瞳は今までの柔らかさを追い出し、冷酷な男が現れた。多くを語らず佇む姿は凄味がある――美しいだけに。
何も策がないまま、ここに来てしまったことを少し後悔した。
「その男の資料、コピーを持ってきていますね?」
「あ、はい。これです」
「わたしも調べてみるから」
「助かります。でもどうしてですか?」
「そのまま、お返しします。じゃあ、なぜここに?」
サイとそっくりじゃないか?自分のことを「わたし」といい。馬鹿丁寧な口調。口数は少ないのに、いつも追いつめられる。
「沢木さんは誰かさんにそっくりですね」
「付き合いが長いから。でもあの男とわたしは別物です。
それで?身元の情報を渡されて、何か言われました?」
「「それじゃあ、ゆきちゃん。お手並み拝見ですね」と。俺が泣きをいれて頼るしかない、そんな程度の情報です。借りを作れば俺達の一生はどこかにいってしまう気がする。
だから足掻いてみます。そう決めたら、あなたのことを思い出して、図々しいですね。
でも猫の手も借りたくて」
ショップカードを渡される。今度のカードには連絡先と名前が書いてあった。「沢木碧仁」スーツのポケットにしまいこみ、暇を告げようと腰をうかしたとき、背後でドアの開く音。
「こんばんは、裕」
よりによって……桜沢。
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