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おれは日ごと夜ごとに思い出す。建物の灰色の影に、木々のざわめきに、小鳥のさえずりに、彼女の声を聞く、彼女の吐息を感じるのだ。そして悪いことに美妖精イツクシは本当にそんなものを操ることができるのだ。本当におれに囁いてくるのだ。彼女は大風を使って、あるいは虎の夫婦を使って、おれを森に攫うこともできるのに、そうはしないのだ。これは女のいじらしさ、それとも妖精の手管であろうか? あれは日ごと夜ごとにおれを誘う。いらっしゃい、遊びましょうと。難しい話はよして頂戴、わたしに飽きたって訳ではないんでしょう? さあ、今日を楽しみましょうと。今日が楽しければいいじゃないのと。そうしておれは、抗えないのだ。そんなこと誰に出来ようか。一体妖精に逆らえる人間など、それは本当に人間か? おれは窓を抜け出し、森へ、森へと分け入って、ついには彼女の白い手を掴んでしまうのだ。柔らかくておれを拒むことのない、百花の香りの
するその手を。
両親はまだ若い、おれを勘当して弟を作ろうと思えばできないことはないだろうし、嫌なら攫ってくればいい、恨みはすまいよ、大出世だ。もうおれは戻れない。だからイツクシさえそれでいいなら、この王冠を捨てたっていい、そう思ったのだよ。先に捨てろや、という気持ちはわかるがおれも王子だ。王冠を頂いて生まれ、脱いでみたことはないのだ。
なあササクよ、お前にわかるか。おれにはわからぬ。どうかこの手紙を持って行って、返事をもらってきて欲しい。おれと城で生きてくれるかと、すぐ後にきっとそうなるが、一緒に城を追い出されてくれるかと。ただしイツクシにあまりゆっくり考える時間を与えないでくれよ。万年を生きた美妖精は、時に約束を千年の先に引き伸ばす。その時はおれもお前も彷徨う骨になるであろうよ」
しんと余韻の後に拍手が起こる。タマゴ王子は大きく頷くと、あたりを気にしながら退場する。彼を追って拍手が再び、大きな焚き火のように膨らむ。
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