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焦らず、感じろ、海の声を
かつての恋人は言っていた。俺の一番好きな所は、海を愛している所だって。そう、ちょっと前までの俺なら、海を愛している、と何の躊躇いも無く言えた。
ボードと共に高い波まで泳いで行く瞬間。風を見て、波を感じ、バランスを感じて立ち上がる時に。目の前の景色は、まるで自分が海の一部にでもなったかのような感覚を感じたもんだ。
それが今じゃ、地面に足を付いてパンケーキとコーヒーを売ってやがる。人生ってのは何があるか解ったもんじゃない。恋人はどうしたって?何も言えずに置いてきたさ。勝手に海から遠く引っ越した。病院から退院した瞬間に、何も言わずに。
「パンケーキ……、」
「はいはいパンケーキね」
考え事をしながら手を動かす。あぁ、いけない、バイト中だった。何気無く相手のシャツをチラリと見れば、輝く海を彷彿とさせる色合いにツバ付きの帽子の下から目を見開く。それから、辺りを気にすれば回りがざわめいていて、それが全て目の前の男の仕業だと知る。何故かって、そのざわめきを俺は知っているからだ。隣で並んで浜辺を歩けば男は注目の的だ。彼は、それは全部、未来のサーファーである俺に向けられた物だ、と言っていたけど。
恐る恐る、顔を上に向ける。
「……、なんで、」
「パンケーキ食べたら戻るぞ」
そこには、190を越えた筋肉質な金髪の褐色。男前な顔が今や目を見開いて怒りを抑えているような表情だ。正直怖い。だって彼は俺のかつての恋人で、何も言わずに側を離れた経緯があり、だから怒るのも無理はないし、それは解る。けど解らない事もある。それが一番怖い事だ。
「俺、お前にこの場所教えた?」
「いいや」
「……」
「白イルカがお前の場所を言っていた」
「あー、解った、少し休憩入れて来るから、奥の席で待ってて」
俺のかつての恋人は男前でモテるが、少し電波だ。けど懐かしい感覚にバックヤードで休憩を申し出る傍ら思わず吹き出してしまう。まさかまた、会えるとは、本当に思わなかった。とは言えこの土地に来てまだ一ヶ月も立ってないわけだが。
「待たせたなアトラス」
「……フィン、戻るぞ」
向かいに座って、即座に言われて、まあ待てと促す。説得して帰って貰わなきゃ。もう俺は、海に戻るつもりは無い。

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