第一章 帝国の陰影Der Schatten des Reiches(4)

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 ユリウスはまだ、そこまで墜ちてはいない。  突き放した一方で、そう信じてもいた。  クロゼット内部のフックに、隠すようにして仮面が引っ掛けてある。  フォルカーは軍装の襟を整え直しながらふと、それを視界の端に捉えた。  ……一見するとヴェネディヒの謝肉祭で仮装するのに用いるような仮面だ。白い簡素な貌の部分の周りに、臙脂色の羽根をあしらってある。  まるで仮面舞踏会(マスケンバル)用。軍人の執務室にそぐわない品物であることは明らかだ。  しかし、フォルカーは着替えを終えるとおもむろに仮面を手に取った。  略礼軍装の上から仮面を顔に被り、姿見に映してみる。  中世貴族さながらの、仮装。  仮面の下から覗く双つの眼に向け、フォルカーは皮肉な笑みを浮かべて見せた。  経歴への傷を恐れて息子の件をできるだけ隠匿しておきたい自分がいる。  またその一方で自分は、偏った性欲を満たすため非合法のSM娼館などへ時おり出入りしているのだ。メス犬に鞭をくれてやる際に被るこんな馬鹿げた仮面を、局長室のクロゼットにまで忍ばせている有様。  息子の件で保身に執着するのとは正反対に……自ら危ない橋を渡りに行っているようなものではないか?  この性癖が露見すれば、経歴に傷を残すどころか真っ先に粛清の対象だ。  それを分かっていてSM娼館通いをやめようとは思わない自分を、フォルカーはもはや色欲狂いとか色情症としか評することができない。  これで身を滅ぼすことになるならば自分もその程度の人間だということだ。  ただし、SM娼館へ出入りする際は単独で、偽名を用い、筆跡や指紋など一切痕跡は残さないようにするなど、用心は重ねている。  …仮面など被った所為(せい)で、久々に欲求が漲ってきた。  フォルカーは仮面を外し、黒革の手提げ鞄に入れた。  くだらない晩餐会を抜けた後で、クラブへ足を運ぼう。  姿見の前にいる男は、略礼軍装に身をつつんだ、賢しげな美貌の高級軍人に立ち返っていた。  フォルカーは局長室を出る前、最後にもう一度鏡に顔を近づけた。  嗜虐への欲求がアクアマリンの虹彩の周りに、血走った色となり残っている。  仮面を被ったせいで現れた『偏執的な人格』を押し殺す為に、彼はことさら無表情を装った。  ―そうして通常の『エーベルトSW中将』を作りだしてから、フォルカーは局長室を後にした。
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