ニ 木曜日

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ニ 木曜日

「板井さん」 「? はい」  翌日、受け取りのサインをしようとペンを取った時、不意に名前を呼ばれた。弁当の注文の時はいつも名乗っているし、受け取りのサインは僕の苗字だ。知ってもらってはいるだろうが、呼ばれたのは初めてだと思う。  顔を上げて返事をしたはいいものの、彼は僕の手元を凝視している。なんだろう、早く書けってことかな。 「板井さんの分は、コレの中にありますか」 「え? ……あ、はい。いつも美味しくいただいてます」 「そう、ですか」  それきり黙ってしまった彼に、それが何か? と聞くのは何故か躊躇われて、数秒弁当と彼の顔を見比べてしまう。廊下の向こうで鳴った電話の音に仕事中だったことを思い出し、途中だったサインの続きを書いた。  差し出した受領書が見えているのかいないのか、一点を見つめたまま動かない彼の名前はなんだったか。注文のための電話に出て開口一番の店名の、その先。 「ツヅキ、さん」 「はい……へ、え? っは、はい!」  合ってたよな、という不安は、どもりながらも元気な返事でなんとか安堵に変わる。名前、覚えててくれたのかっていう顔を微笑ましく眺めた。言わせてもらうならお互い様だからな、年下の青年。  和ませてもらっておいてあれだけど、子ども扱いしたい訳でもない。気持ち背筋を伸ばし、軽く頭を下げる。 「いつも、美味しいお弁当をありがとうございます」 「っこちらこそ! いつもありがとうございます! おれも、もっともっと頑張ります……!」  おれも? と首を傾げているうちに手元の受領書をかっさらわれて、気付いた時には若々しい背中は廊下から消えていた。こういうのを瞬発力と言うのだろうか。  礼を言って顔を上げた時に見えた、ぽかんとした顔が喜びと照れに染まっていく様がふわりと脳裏によみがえる。思わず、ふふ、と笑みがこぼれて、誰にか分からないけど、ごまかす様に後ろ頭をかいた。
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