一 水曜日

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一 水曜日

 ああ、カレーのいい匂い。お腹空いた。 「どうかしました?」 「……え?」  完璧に仕事を忘れてカレーの鍋を凝視していた僕の意識を、若い男の声が引き戻す。  いかんいかん、仕事しなきゃ。まだ昼休みまで一時間以上ある。 「あ、いや、元気がなさそうに見えたので、つい。すみません。忘れてください」  そう言って、若者が軽々と弁当の詰まった荷運び用の箱を机の上に置く。今日は水曜、カレーの日だから、箱の上には鍋とおたまも乗っている。  年明け、僕が勤める智見印刷株式会社が日常的に頼む仕出し弁当屋が変わった。七食分味見にタダ、一週間はお試しで一食百円、本来ならもう少しするが、以前の弁当屋の値段に合わせて契約後は三六〇円でOK、注文の弁当とは別に週一でカレーを提供、と熱心な営業と野菜の多さで管理のおばさま方のオメガネに適って乗り換えとなった。  自炊を滅多にしない僕の昼食はいつも仕出し弁当だ。注文は管理部である僕の仕事だから頼み忘れることもない。  声をかけてきた弁当屋エクセレントランチの若者は二十歳くらいで、注文の電話対応と弁当を運んできてくれるのはだいたいこの子だ。ぱっと見、女の子のような顔立ちだが、背は僕より高いし腕にもしっかり筋肉がついている。弁当屋が変わってしばらく、とても背の高い女の子なのでは説があったほどだけど、話してみれば普通の男の子だ。  応対はしっかりしてるし、気も遣ってくれる。年配の女性は息子のようにかわいがってくれるが、僕としては年下男子の方が気は楽だ。 「すみません……管理のおばさま方が見合いしろってうるさ、あ、いえ」 「あはは、大変っすね。でもわかりますよ、おれもしょっちゅうおばちゃんたちに彼女はいないのかーって聞かれますもん」  そう言って笑う彼の言葉は想像に難くない現実感があって少し重い。大きなお世話、以外にどう表現したらいいのかわからないおばさま方の話のタネは、言われる側だけが楽しくないものだ。 「……はい、数も大丈夫です」 「サイン、お願いします」 「はい」 「確かに。じゃ、また適当に回収に来ますね。ありがとうございました」 「ご苦労さまです」  とある初夏の日、彼と業務外の話をしたのは初めてだったなと思いいたったのは、昼休み直前にカレー鍋を湯煎にかけている時だった。
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