第59話 SILENT RINGS

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第59話 SILENT RINGS

「方舟を開けて以降は、三十分を巻き戻すためのやり直しの時間だ。だから二回目の歴史は一度目に上書きされて消えてきた。晶馬くんが学校で習ってきた歴史は、αとΩが生まれてから起こった事じゃないんだ。教科書に載ってる江戸の飢饉や世界大戦も一度目に起こった出来事で、僕たちの時間には起こってない。そんなこと稀少種が起こさせない」 あっ、そうか。りぃたちがいるのに戦争があった方がおかしいんだ。稀少種が黙って見てる筈がない。 僕の考えを読んだりぃが頷いた。 「僕たちは、計画の進行を観察する観察者(オブザーバー)だ。当時激減していた人類を守り、過去から続く新しい<明日>を見届ける為に存在している。人類の繁栄の障害になりそうな紛争や災害は、発生前に僕たちが潰してきた。今も世界の異変は見張ってるし、世界各国に苦言を呈する発言力も持ってるよ。言っても駄目な時は力技使っちゃう」 稀少種の力技に逆らえる国なんてない。そりゃ世界も平和だよね。 「現在、世界はようやく元に戻りつつある。科学技術が発展してきた人類は、大抵の問題を自分たちで解決できるようになった。少し前に難病の特効薬を作った小早川教授だって一般のβだ。αですらないよね。 人類は稀少種の助けを必要としなくなってきてるんだ。それを裏付けるように稀少種の出生率も年々下がってて、とうとう僕以降は生まれていない」 えっ、それって…… 「りぃが、最後の稀少種?」 「たぶん。きっともう生まれない。現存する中で僕が最年少だから、このままいけば僕が計画を見届ける最後の者となるだろう」 「!」 びっくりしてりぃのシャツを掴んた。胸が詰まって言葉が出ない。見上げた輪郭が滲んだら、柔らかく抱え込まれて涙がシャツに吸い取られた。 「もともと数が少ないんだし、年若いといってもほんの少しだよ。これは最初から遺伝子に組み込まれていた事で、計画が順調に進んでいる証拠なんだ」 髪を梳くように頭を撫でたあと、肩を抱いた手が大丈夫だよってポンポンと僕をあやした。 「ところで数年前に日本の年号は平成から万和(ばんな)に変わったでしょ」 「うん」 「でも一度目の歴史では、万和じゃなくて令和だったんだ」 「れいわ?」 「そう。あらゆる分野が過去に追いついてきたから、令和ではなく万和(ばんな)になった。二度目の歴史は平成から万和(ばんな)へとスライドして、未来へと続いていくんだ」 「新しい歴史がもう始まってるってこと?」 「うん。このまま人類が全てβになれば計画は完了。いつのまにか子供たちは新しい朝を迎えている」 誰も知らない、見えないところで何かが動き始めていた。でもそれは大きすぎて、悠久の時間の一瞬の火花であり、マクロな宇宙の片隅のミクロな人の子が気づけるものではない。歴史が一度目から二度目にスライドしても、継ぎ目の段差に誰も気付かなかった。 これが見えるのは神様の目線だ。りぃ達はその高みから僕たちをずっと見ていた。 「歴史は分離したんだ。だから令和で延期されたオリンピックは消え去り、万和で予定どおり華々しく開催された事になった」 「そういえばどうして一度目では延期されたの?」 ​「世界的大流行(パンデミック)が起こったからだよ。2019年、その形状から王冠の名を付けられたウイルスが世界中に蔓延して猛威を奮ったんだ」 パンデミックだって?天然痘や黒死病みたいな、死病が蔓延するアレ?令和って今とほぼ同じ生活水準なんでしょ、とても信じられない。 「発生した当初だってこの時代にまさかという思いだったよ。その油断が根絶を阻んだんだ。発生した場所も時も分かっていたのに、その地で封じ込める事が出来なかった。対岸の火事だった筈が数ヶ月後にはそれぞれの自国に広がっていた。 そのウイルスは重症になると呼吸器不全を引き起こした。疾患を持つ人や年配の人が特に重篤になりやすく、突然の悲しい別れが全世界で続出した。なのに当初は薬もこれといった処置法もなかった。 人々は恐れ慄き、世界が一変した。 医療現場は崩壊寸前まで追い込まれ、それまで気にもしなかったマスクは不足して信じられないほどの高値で売買された。感染を広げないように様々な対策が取られ、外出が制限されて仕事はリモートで行われた。開催予定だったオリンピックも一年延期され、翌年開かれたそれですら例年と違って無観客試合で静かなものだった。 オリンピックが開催された年の九月には世界で二億人以上が感染して死亡者が四百万人を超え、たくさんの著名人も亡くなっている。国際間の流通も貿易も滞って人々の行動も制限され、世界経済は大きな打撃を受けていた。 その後は抗体の開発と公布が異例の早さで進んだけど、ワクチンが出来あがるまでの一年半、人々は家に閉じこもって感染の恐怖に怯えていたんだ。 そうやって世界中を暗闇に落とした出来事だったんだけど、僕たちの時代でもついこの前同じことが起こる可能性が出た。でも今回は小早川教授が先に特効薬を開発してくれてるから、もし病気が広まっても今度はパニックに陥らない」 小早川教授って、この前学会で難病の特効薬を発表した、あの教授?その薬は専攻が違うのにりぃも研究に加わってて、一緒に学会にも出席してた。ということは、 「大学で研究してた難病が世界中に広がるかもしれなかったの?」 「うん。あの病は稀少種でも治せなかった。薬がないまま広がれば、罹患した患者は苦しみの中で命を落とさなければならなかった。世界に再び暗雲が広がった筈だ」 その難病は伝染らないとされていた。だけど稀少種はそれが伝染する可能性を見つけたんだ。 「薬はりぃたちが教授にお願いして作ってもらったんだね」 「ちょっと違うけどそういうことになるかな。教授は理由を知らなかったのに黙って協力してくれてたんだよ」 教授、いい人だ。 「歴史は過去から学ぶ為にある。だけど、一度目ではウイルスが世界に広がることを食い止められなかった。その事を知っている僕らが再びパンデミックを起こさせる訳にはいかなかったんだ。 令和の悲劇を繰り返さない。その思いの結果、この時代には静かなる五輪(サイレントリングス)も喜劇王の悲劇も起こらなかった。 奇しくも、僕たちがパンデミックの可能性を発見したのは令和ではウイルスが発生した年で、教授が学会で特効薬を発表した日は一度目では延期したオリンピックが開催されていた時だった。 この偶然の一致は神の采配としか思えない。今回の一連の出来事は神が僕たちに与えた試練であり、存在意義だった。僕たちはこの為に存在していたんだ」 そんなことがあってたなんて……。 稀少種が守ってくれてなきゃ、世界は今頃大変なことになっていたかもしれない。 「そうやってりぃたちは、人知れずずっと僕たちを守ってきてくれてたんだね」 だけど人々はその事を知らない。この先も知ることはない。 「ありがとう」 「……嬉しいな。僕たちの成果は目に見えることはない。だけどそれが世界が平和に保たれている証なんだ。だから知られないのが当たり前なのに、その働きを知って努力を認めてもらうのはこんなに嬉しいことなんだね」 「これからは僕がいっぱいお礼を言うよ」 この事を知っていれば、みんないっぱい感謝する。人知れない努力なら僕が皆の分までありがとうを言おう。 世界の守護者、そして僕を何度も救ってくれたヒーロー。 「大好き。ありがとう」
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