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日野さんと面識を持ったのは二年に上がった始業式の日からで、一年の頃はクラスも違ったのでおそらく一度も会話をしていないと思う。
喜怒哀楽あらゆる表情の変化が殆ど見られず、何物にも心を動かさない孤高の生徒の様に見える――と言うのがごくごく最近までの印象だったのだけれど、正直全くの思い違いだったと言って良い。
猫を愛し、猫を追いかけ、猫に頬ずりする事を生き甲斐とする生粋の猫愛好家であり、その一見変化に乏しい表情の下には猫に対する無限の愛が渦巻いている。
ペット用品店でアルバイトをしているのも、多分そのあたりに起因しているのだろう。
胡散臭い猫妖怪と同居する事になった僕は猫を飼う事に関する知識が皆無だったので、実際彼女の知識は渡りに船だ。
猫用の生活用品だとかもそうだし、サクラの予防接種だの何だのと言う事も言われなければ気にもしなかったのだから。
謀略の果てに、サクラに動物病院で予防接種その他、昨日診て貰った怪我以外の雑多な診察を受けさせた僕らは、日野さんのバイト先のペット用品店で猫缶特上を購入し、ついでに僕らも売店で買ったクレープを持ってショッピングモールのベンチで昼食を取っている。
「……これ一缶あたり余裕で百円以上するのか」
「セールの時なら、もう少し安い」
一心不乱にまぐろを使った高級猫缶に食い付いているサクラを見ながら今後の食費の計算をしていると憂鬱になる。
「これは……ご主人……非常に……美味であるな……!霊獣も……まっしぐらと……言わんばかり……!」
……ついさっきまで『もう誰も信じない』だとか言って不貞腐れていたクセに調子のいい猫だ。
「はいはいそりゃようございましたよ。……けど物を食いながら喋るんじゃないよ」
「朝霧君、本当にサクラと喋ってるみたいに見えるんだけど」
日野さんが、ついサクラと普通に会話してしまった僕をじっと見てくる。
「ああ……まあ、何となくほら、これだけがっついてるしさ」
はぐらかす僕をジト目で見てくる視線に耐え切れずに辺りを見回す。
二日続けてこのショッピングモールに来ているけれど、案外なんでもあるんだな。
ディスカウントやら専門店もあれば、喫茶店やバーガーショップなんかもあるので学生の姿も多い。
サクラの餌代の事も考えたら、僕もこの辺でバイトでもするべきかもしれない。
「そう言えば、日野さんはあのペット用品店で働いて長いの?」
クレープの包装を剥がしつつ尋ねると、
「……一年の、夏休みから」
彼女は山盛りにトッピングされたクリームをスプーンでパクつきながら答えた。
……あんなにてんこ盛りにしてスプーンで食べるのって、最早クレープとしての存在意義が変わっていないだろうか。
ちょっと風変わりな所はあるけど、甘いものに目が無いのは同年代の女子生徒達と同じであるようだ。
「ウチの学校って職員室に届け出すればバイトいいんだっけ?」
「うん」
「ちょっと考えてみるかな……」
「バイト、するの?」
「うーん。爺ちゃんと婆ちゃんに一応相談してからの話だけれど、コイツの消耗品やら餌代やらもあるし」
食事に没頭しているサクラの頭をくしゃっとやる。
「食事の邪魔をする輩は例えご主人でも次は引っ掻く所・存!」
サクラはぶるっと身を震わせて僕の手を振る払う。
僕とサクラのやりとりを眺めていた日野さんは、
「部活は?」
ポツリとそう言った。
――チクリと、胸の奥が疼く。
「あー……えっと、うん……そうだよな……そっちの事もどうするか決めてないのに、駄目だよな」
僕は何となく居心地が悪くなって声のトーンが落ちてしまった。
「別に、いいと思う」
「――え」
「全部の事に、向き合わなくてもいいと思う」
意外、と言うか。
割と何でも一人でこなしている様に見える彼女から、そういう類の言葉が聞こえて来るのは予想していなくて、
「考えるのも辛いくらいの事で、自分だけの問題なら、無理に向き合わなくてもいいと思う」
「…………」
何だろう。
彼女の口調はいつも通り彼女独特のトーンだけれど。
その言葉の奥には、何がしかの確たる思いがあるんだろうか。
そう言った後、黙々とクレープを食べるのを再開した彼女からは、そういう部分は窺い知れなかったので、僕も食べかけのクレープにかぶりついた。
誰しも日々の生活の中で、大なり小なり悩んだり躓いたりしている。
それは大人だって僕ら学生だって関係ない。
勉強や仕事の失敗や対人関係で頭を悩ませる事は、どんな人にだってあるものだ。
今の日野さんの言葉にしたって、彼女なりに思う所があるんだろう。
僕も僕なりの方法で、引きずっている悩みに対処しなければいけないのだろうと思う。
「ありがとう。少し、気が楽になったよ」
僕がお礼を言うと、日野さんは小さく「うん」とだけ答えた。
「あれ? 咲じゃん」
食事を終えて、日野さんがサクラを撫でまわそうとし、サクラがそれを躱そうと両者が膠着状態になった頃、不意に横から声がかかった。
そこには高校生の男女が一組。
ウチの高校の制服とは違うから、鵜野森の生徒ではないみたいだった。
別段派手な格好と言うわけでもない。
女生徒の方が日野さんの名前を呼んだと言う事は、中学の同級生か何かかもしれない。
「うわーめっちゃ久しぶりじゃない? 元気だった?」
「……」
「卒業式以来? 咲、鵜野森行ったんだっけ?」
「……うん」
……相手の子、物凄くテンション高そうに見えるけれど、多分あっちの方が一般的と言うか多数派なんだろうな。
「あれ、その人ひょっとして彼氏?」
「違う」
即答。
即答である。
……確かに微塵もそう言う間柄ではないのだけれど、こう、一瞬の間も置かずに否定されると健常な高校生男子としては何だか物悲しい。
「あはは、無愛想なの変わんないねー」
「…………」
彼女は笑いながら日野さんの肩をポンポンと叩き、
「今度さ、また皆で遊びに行こうよ。奢りでさ」
「…………」
…………。
……今、奢りって言わなかったか?
「…………」
日野さんはリアクションを返さない。
よくよく見ると心なしか、視線も知人の子から逸らしてている様な気がした。
「ねえ君、……今の……何?」
嫌な感じがしながらも、誤解があってはまずいので恐る恐る聞き返す。
「え? お兄さん咲の友達なのに知らないの? 咲ん家お金持ちなんだよ? お兄さんも奢ってもらいなよー」
ゾクリ、と。
背筋に嫌な物が這いまわるような感じがした。
――ああ。
駄目だ。
これは多分、駄目な奴だ。
同じ年頃の、普通の高校生の発言だなんてにわかに信じがたい。
まぎれもなく、言いようのない嫌悪感だ。
発言したその女生徒の表情、口ぶりのいずれをとっても、まるで先生の話を聞いていなかった人間を注意する学級委員か何かのような。
悪い事だと言う認識で言っていない。
少なくともそれが集りの類である事を微塵も自覚していないようなリアクションだった。
「君は――」
「朝霧君」
思わず強く出掛かった僕の腕を日野さんが掴んでいた。
「……けど」
「いいから」
……。
「じゃああたしら行くとこあるから、またね」
女生徒はそう言って笑顔で手を振り、連れの男子生徒と背を向けてモールの中へ消えて行った。
残された僕らの間に沈黙が流れる。
容易に立ち入って良い問題か判断に悩んだ僕は、中々掛ける言葉が見つからずに押し黙ってしまう。
「ご主人、これはよろしくないであるな」
……言われなくてもわかってるよ。
「……日野さん、その……」
「大丈夫」
大丈夫。
いつもと変わらないような低めのテンションで吐き出されたその言葉。
その『大丈夫』は、僕に向けられたものだったのか。
それとも、自らへ向けられたものだったのか。
この時の僕には推し量る事はできなかった。
神社へ続く坂道を自転車を押して歩いていた。
夕方六時を回ったとは言え、まだ夏の終わりなので日はようやく傾き始めたくらいだ。
「甲斐性なし」
自転車の前籠から坂の下の街並みを眺めながらサクラが毒づいて来る。
「……仕方ないだろ。あんな時、どこまで踏み込んでいいかなんて僕にはわからないよ」
おおよそ日野さんとあの女生徒の関係が良好な友人関係とは言えないであろう事は察しが付く。
けれど、僕が日野さんの過去においそれと踏み込んで良いかと言う点に関しては正直自信が無かった。
何せ自分のつい最近の過去の悩みごとにすら向き合えていないのだ。
そんな人間が軽い覚悟で触れていい話ではない事は確かだと思う。
「ご主人」
「意気地なしだとか言うんだろ、わかって――」
「少々、あれはマズいかもしれないのである」
マズい、とはどういう意味合いだろう。
「あの相手の子が日野さんに何か――例えば金銭的に被害を与える様な事をするかもしれないって事か?」
「それもあるにはある……のであるが、それはそれ。あさましい事をあさましいと思わない人間なんて昔からどこにでも居るのであるな」
「じゃあ……何がマズいって言うんだ?」
サクラは困惑する僕の方に向き直って、
「マズいのは日野咲の方であるな」
思わず足が止まってしまう。
「どういう事?」
「昨晩私が主の余剰な陰の気を喰ったのを覚えているであるか?」
「そりゃ覚えてるよ」
あの身体に纏わりついていた煙みたいなやつだ。
悩みや憤りみたいな感情が漏れ出していたのをサクラに食って貰う事で、随分精神的には楽になったんだ。
「先程の日野咲からは、ご主人とは比較にならない程の陰の気が溢れていたのである」
「……まあ、日野さんがあの子と中学の時にあまり良好な仲じゃなかったのは間違いないだろうけれど……それなら、僕にやったみたいにサクラが日野さんの陰の気を喰ってあげればいいんじゃないか?」
「ふむ……」
僕の言葉にサクラはピンと張ったヒゲを触りながら、
「それで何とかなれば良いのであるが」
今一釈然としないサクラの言葉に一抹の不安を覚えながら鵜原新市街の方を見ると、さっきまで晴れていた空に暗い雨雲が遠くから近付いて来ているのが見えた。
夜になって降り始めた雨は、にわか雨と言うには足りないほど長い事降り続いている。
サクラと居間でニュースの天気予報を見ていると、洗い物を終えた婆ちゃんがお茶を持って入って来た。
「随分降るわねえ」
「夕方まではあんなに晴れてたのに」
「ジメジメするのは苦手であるな」
「明日お洗濯もの干せるかしら……」
婆ちゃんも座ってテレビを見始める。
爺ちゃんはもう先に寝ると言って寝室へ戻ってしまったから、サクラも普通に婆ちゃんと会話ができるのだが。
「洋子殿、まぐろの猫缶と言うものは大変美味であるな」
「あら、そんないい物食べてきたの?」
「洋子殿の焼き魚も絶品であるが、猫缶は猫缶で中々オツなものである」
「あらあら」
そのやりとりを横目に、僕の頭の中では夕方のサクラの話と昼間の日野さんの『大丈夫』と言うあの言葉が堂々巡りしていた。
「……ねえ、婆ちゃん」
テレビを見ていた婆ちゃんの方へ向き直る。
「あら、夢路さん改まって何かしら? もしかしてお小遣いの話?」
婆ちゃんも湯呑を置いて僕の方へ向き直り、サクラは婆ちゃんの膝の上に乗ってこちらを見ている。
「そうじゃなくて。その、何て言ったらいいかな。……友達が何か悩み事抱えてたら、普通はまあ……相談乗ったり手助けしたりってすると思うんだけど」
「そうね」
「けど、その友達の抱えてる悩み事が……本人にとって考えを巡らせるのも嫌な事だとしたら、僕はそれを無理に聞き出していいのかな……?」
「…………」
「詳細は本人から聞いたわけじゃないけど、状況から考えたら結構深刻で……中途半端な気持ちで聞いちゃいけない事かもしれないんだ」
「……と言う事は、そのお友達にはそれとなく聞いてみたりもしていないのかしら?」
「その場に居合わせた僕には『大丈夫』って……けど、どう見たって大丈夫には見えなかった。話す様になってまだ数日だけど、それでも……あんなの本当に大丈夫だなんて思えない」
「ご主人……」
「それで、何を悩んでいるの?」
「……僕がそこまで踏み込んでいい人間なのかがわからないんだ。事情もよく知らない、つい最近話す様になった程度のクラスメートのおせっかいで、掘り起こしたくない過去を掘り起こさせるような事――」
「夢路さん」
いつの間にか俯きながら話していた僕の言葉を婆ちゃんがそこで止めた。
普段婆ちゃんは人の話を途中で止めたりする人ではないので、僕は驚いて顔を上げる。
「お友達を助けるのに『自分が踏み込んでいいのか』だなんて気にしているのは、あなたがその人からどう見られているのかを気にしてしまっているからじゃないかしら?」
「――――」
婆ちゃんの言葉は柔らかい言い回しだったけれど、僕は後頭部をガツンと殴られたみたいな感覚に見舞われた。
「あなたは、どうなりたいの?」
「どうって……」
「例え迷惑がられてでも、そのお友達が直面している問題を解決したいの? それとも、問題を解決してあげて恩人になりたいの?」
僕は――
僕は、どうしたいんだろう。
日野さんの人となりを僕は正直理解しきれていないし、それは彼女にしてみれば僕の事だってよくわかってないはずだ。
気心が知れた古い友人ならともかく、僕なんかが詮索したらきっと嫌な顔をするだろう。
……けれど。
あれが中学時代のあ忌むべき体験の延長だとしたら、あの相手の子は間違いなく、さしたる悪意の自覚も無くきっとまた彼女の前に現れる。
ほんの一瞬、少しだけ見せた柔らかい表情が、そんなもののために曇ってしまうのは見たくはないと思った。
「……ありがとう、婆ちゃん」
「あら? もういいのかしら?」
「うん、明日、本人に聞いてみる」
僕が頷くと、婆ちゃんはフフ、と小さく笑った。
自分の悩みすら自分の中で消化できていないのに、人の悩みごとに首を突っ込んでしまうなんて、多分傍から見たら滑稽だと思う。
自分の事から目を背けている代替から来ている気持ちなのかもしれない。
それでも。
振り払われるかもしれなくとも、差し伸べられる手を差し伸べない事はすまいと思った。
部屋に戻ってスマホに目をやると、SNSの通知が来ているのに気が付いた。
高橋悟、の表示がある。
通知を開くと『部長、居た』とだけ短く書いてあった。
わざわざ『居た』って言う言い回しをしているって事は、まあ少なくとも不穏な発見のされかたをしたわけじゃないんだろう。
僕はとりあえず『了解、良かったな』とだけ短く返信しておく事にした。
「ご主人、明日は日野とかいう女子に話を聞くのであるか?」
部屋の主より早くベッドに陣取ったサクラが言う。
「そうだな、話してくれるかわからないけど」
「けれど私は学校とやらに連れて行ってはくれないのであろう? 仮に行ったとしてもまたあの小部屋で見知らぬオッサンと二人きりは嫌であるが」
「明日は日曜で学校は休みだよ。それに学校へはもう付いてきちゃダメだからな。明日はまたバイト先のあの店に行ってみる。僕は日野さんのケータイ知らないし」
「左様であるか」
そう言うとサクラは枕の上で丸まって眠る体制になってしまった。
「お前がそこで寝たら僕は何を枕にして寝ろって言うんだよ……」
溜息を一つつき、カーテンを開けて外を眺める。
窓にぶつかる雨の音は、一層強さを増しているように思えた。
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