第三章 雨

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 2  僕とサクラが家へ戻ると、二階のベランダで洗濯物を取り込んでいる婆ちゃんと目が合った。 「ただいま、婆ちゃん」 「あらおかえりなさい。……ふぅん、その顔だと昨日の話はいい方向に行ったのかしら?」 「あー……うん、まあ。はは」 「帰りの間中ご主人のだらしない顔を見させられ続けて辟易したのである。洋子殿、夕餉には焼き魚を所望するのである」  ……出来る嫁を目指しているとか言っといて、数日で婆ちゃんに夕飯のメニューをリクエストし始めたぞ。 「はいはい。夢路さん、私晩御飯作っちゃうからお洗濯ものの残り、取り込んでおいて貰えるかしら?」 「ああ、いいよ」  婆ちゃんが部屋の中に引っ込むのを見て、僕は家の中に入る。 「お布団は押し入れに入れておいて頂戴ね」  そう言いながら一階へ降りて来た婆ちゃんがすれ違いざまに肘で僕をつついて、 「お友達の話、解決したら遊びに連れていらっしゃい」  などと言ってまた器用にウインクして見せる。 「ああでも、サクラさんと言うお嫁さん候補がいるのに大変ね」 「だから日野さんはそう言うのじゃないし、そもそもサクラも猫だからね?」 「あら、日野さんていうのね。聞いちゃった。ふふふ」  軽い足取りで台所へ消えて行ってしまった。  ……本当にあのノリで五十代なのだろうか。 「ご主人、後ろが支えているのである。早く上がるのである」 コイツ……。 「あれ……?」  自室にスマホと財布と買い物したサクラの猫缶を放り投げ、洗濯物を取り込もうとベランダに出ると、いつの間にか暗雲が立ち込めている事に違和感を覚えた。  日野さんとショッピングモール前で分かれてから帰り道も含めて――いやそれどころか、さっきここに居た婆ちゃんと玄関前でやりとりをしていた時でさえ、こんな空模様ではなかったはずだ。 「ご主人、どうしたのであるか?」 「いや……こんなに空、暗かったかなと思って」 「ふむ……」  サクラも僕に言われて空を見上げる。  まだ夏の終わりだし、気温が極端に暑かった日なんかは夕立に見舞われる事は少なくない。  都心なんかでは半径数キロメートル範囲だけ急に大雨になる事だってあるらしい。  けれど鵜野森は地方都市もいいとこだし、晴れ渡っていた空がものの五分でこんな様相になるなんて事はちょっと覚えが無い。 「――降って来たであるな」  黙っていたサクラが口を開くと、ポツポツと顔に雨粒が当たるのを感じた。 「うわ、まずいぞ。早く取り込まないと干してあるもの全部ずぶ濡れになる」  僕は大急ぎで残っていた布団と衣類を取り込みにかかる。 「サクラ!お前霊力回復してきてるんなら何か怪しい能力で手伝――」 「ちと出掛ける故、夕餉は取っておいて欲しいのである」  言うが早いかベランダの手すりを軽々超えて、サクラは地面へ着地する。  そしてそのまま風の様に境内を駆け抜けて、町の方へ消えて行った。 「あ・の・妖怪猫!肝心な時に――ってああもう、本格的に降って来たじゃないか!」  恨み節も言い終えない内に本降りになってしまい僕はしばらくの間、洗濯物の取り込みに躍起にならざるを得なかった。  布団を最優先で取り込んだので大惨事は免れたけれど、衣類は結構な量が雨に濡れてしまったため部屋干しする事になり、それらを一通り片付ける頃には結構な時間が経っていた。  一階に降りていくと婆ちゃんは丁度魚を焼き始めた所のようだ。 「何か、サクラのやつ夕食取っておいてくれって言って出てっちゃったよ」 「あらそうなの?……何か外、大分雨降ってるみたいだけれどサクラさん大丈夫なのかしらね?」  婆ちゃんは流しの奥の細い窓を少し開けて外の様子をうかがっている。  軒先から落ちる水滴の音は、ボタボタと重い。  雨脚は弱まるどころかどんどん強くなっているみたいだった。 「……天気予報、雨降るなんて言ってたかしら」  探しに行こうにも、どこに行ったかわからないしなあ。 「まあ、晩飯食べる気はあったみたいだし、その内帰って来ると思うけど……」 「そうね。じゃあサクラさんの分は別にしておきましょうか」 「うん、頼むよ。僕ちょっと上で課題片付けてくるから」 「はいはい」  昨日今日とバタバタしていたせいで課題を終わらせていなかったので、僕は一旦二階へ上がる事にした。  自室に戻って椅子に座る。  窓の外を見てみたけれど、サクラが戻ってきている様子は見られない。  風が無いだけまだマシだけど、雨だけで見ても相当なものだ。 「どっから帰って来るかわからないしな……」  一応鍵を開け、吹き込まない程度に少しだけ窓を開けたあと、僕は課題のテキストを取り出そうとベッドの脇に置いた鞄を開けようとした時、放り投げてあったスマホに通知のライトが点灯している事に気付いた。  また悟あたりだろうか。  画面を見ると、メールの着信だった。 「……日野さん?」  メール着信一件・日野咲、とある。  ショッピングモールで話した時にメアドを交換していたからメールが来る事そのものは不思議ではない。  けど、何の話だろうか。  我ながら『友達になろう』なんて転校したての小学生みたいなやりとりをしてしまったからな……。  何とも言えない気分になりながらメールを開いた僕は、思わず目を疑う事になった。 『助けて』 「――――?」  何だ、これは。  何かの打ち間違えでこんな文面になる事なんて考えにくいし、ふざけてこういうメールを送るような性格じゃない。  ショッピングモール前で分かれてから時間的には少なくとも一時間半くらいは経過しているから、鵜原のどのあたりかは知らないけれど普通に考えたらとっくに家についている。  あの後何かあったのだろうか。  頭の中を嫌な感覚が駆け巡る中、僕は『何があったの?』と短いメッセージを送信する。  少しして日野さんからまたメールの着信があったが、内容はさっきのものと全く同じだった。  これじゃ詳しい事が何もわからない。 「くそっ!」  僕は急いで一階へ降りて、玄関にしまってあったレインコートを引っ張り出す。  僕がガタガタやっているのが聞こえたのか、婆ちゃんが台所の方から顔を覗かせた。 「あら、夢路さんまでまた出かけるの?もうすぐ晩御飯できちゃうわよ?」 「婆ちゃんごめん!後で話す!」 「あらあら」  言い終えるより速く、僕はレインコートを羽織りながら玄関を出て駆け出した。  途中、道場から武道教室での稽古を終えた爺ちゃんが出て来た所に出くわした。 「何じゃこんな時間に大慌てで」 「ごめん!急いでるんだ!」  帰ったら小言の二三は覚悟した方がいいかもしれないと思ったけれど、今は時間が惜しかった。  日野さんがどこに居るのわからないけれど、ともかく鵜原方面に向かいながらどうにか場所がわかるようなメールの返事が返って来るのを期待するほかない。  階段を駆け下りて、僕は自転車に飛び乗った。
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