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第一章 猫又
1
夏の終わりに生まれた台風は、十数年ぶりに、そして唐突に進路を変えて僕の住む町を直撃した。
そいつは今まさに教室のガラス越しに大暴れをしている所で、大きくしなる校庭の木々や折れた枝の切れっ端なんかが校庭を勢いよく転がっていく姿が目に入る。
先程なんて豪快な落雷もあって、最早こんな中を出歩くなんて日本人はどうかしていると思うし、こんなの南の島の王様だったら三連休くらい平気でするんじゃないだろうか。
「あー……こりゃ明日はグランドの片付けからやんねーと部活になんねーな……」
誰も座っていない僕の隣の席にドカッと腰を下ろして、サッカー部の高橋悟が項垂れる。
「さっき島崎からもメッセ来たわ。『電車動かねーし雨凄くて帰るに帰れねーしバーガー屋に居っぱなし』だってよ」
「今日来てるのって地元組くらいじゃないか? 悟も結構遠くから自転車なのによく来れたな」
時計はもう十一時になろうかと言う教室内だが、登校している生徒の数はまばらと言っていい。
電車組は朝から運休で最寄り駅まで来ることもできず、今現在学校に来られているのは大半が徒歩、もしくは比較的近場からの自転車・バス通学の生徒だけだ。
見た感じクラスの三分の一も登校できていないのではないだろうか。
一限と二限はそれでも自習と言う扱いだったのだが、先程校内放送で臨時休校が伝えられた。
とは言え、この天気で帰れと言われてもと言った感じで、多少なりとも風雨が収まるまで校内に居ようかと言うのが僕らの現状だった。
「部長から『朝練体育館でやるから来い』って昨日連絡廻って来たからチャリ鬼漕ぎで来たのによぉ、結局俺入れて四人しか来てねーんだぜ? 部長も結局来ねーし」
上を向いて天井に向かってぼやく。
「はは……ご愁傷様」
僕が苦笑すると悟はこちらに向き直り、少し表情を変える。
「……ところで夢路さ」
「え?」
「空手部……まだ戻んねえのか?」
不意に投げられた質問に僕は少し心が疼いた。
――それは。
それは喜びからも悔し涙からも逃げ出した僕が夏のあの日、立ち昇る陽炎の向こうに置いてきたものだ。
「試合の相手に怪我させたのは事故なんだから、いつまでも引きずるもんじゃねーと思うけどな」
夏の総体の地区予選準決勝。
有体に言ってしまえば、試合中の事故だ。
僕は相手の選手に大きな怪我を負わせてしまった事で、怖くなって大会を棄権した。
それ以来、部活にも顔を出せないでいた。
「サッカーだって派手に衝突すりゃどっちかが大怪我する事はあるけど、怪我した方だって別に相手の事恨んだりはしねーぞ」
悟なりに気を使ってくれているのはわかっているし、本来武道に限らずスポーツ全般そういうものだって言うのは僕も頭では理解しているつもりだけれど。
「ありがとう。気持ちの整理がついたら、戻ろうとは思ってるんだ……」
けれど僕の心は二ヵ月以上が経過しても、未だそのことに踏ん切りをつけられずに居た。
「古武術……だっけ? 実家で爺さんだかにも習ってたんだろ? 腐らせたら勿体ないと思うけどな」
「……わかってる」
「まあ決めるのはお前だからこれ以上は言わねーけど」
悟はそれ以上言わずに再びスマホに目を落とした。
「高橋君。そこ、私の席」
いつの間に居たのか、ずぶ濡れの女生徒が僕の後ろに立っていた。
「うお、日野……お前この雨ン中、強行突破で来たのか……ガッツ有るな」
日野咲。
僕の隣の席のクラスメートで、何と言うか……口数は少ない感じの子だ。
豪雨にやられて、いつもは目にかかるかかからないかくらいの前髪が下がって、完全に目の下まで隠れてしまっている。
性格は寡黙……と言うべきなのか、他の同級生の女子達みたいに派手目なメイクに走ったりすることもなく、そうかと言って大人し目な子達とグループを作る感じでもない。
一学期から一貫して、何と言うか独特な雰囲気を保っていた。
「……どいてくれる?」
悟の言葉には答えずに退席を促す。
「お……おお、悪いな」
悟は慌てて席を立ち、やはり空席で誰も居ない僕の後ろの席に座り直す。
日野さんは席に座り、鞄からタオルを取り出して髪を拭きつつ、
「……人が少ないみたいだけれど」
がらんとした教室を見渡して呟いた。
「え? ああ、この天気で電車組全滅でさ、二限まで自習だったんだけど……その、さっき休校に決まったんだ」
「…………成程」
それを聞いた日野さんは驚く様子もなく、教科書を出して自習を始めてしまった。
昼を回っても雨風はまだ強かったが、雨脚が若干マシに見えてきたと言う自己暗示を駆使して悟はまた自転車を漕いで帰っていった。
どうせ帰ったって勉強する気ないならもう少し雨弱まるまで待てばいいのにと忠告したのだが、明日は祝日だし今日の内から新作のゲームをやり込むつもりらしい。
結局外の天気が回復したのはもうじき午後四時になろうかと言う頃で、雨の強さも帰るには支障が無いくらいにはなっていた。
僕は丁度持って来ていた文庫本を読み終えた事もあったので、いい加減帰宅しようかと荷物を片付ける。
気が付けば、教室は僕と日野さんだけしか居なかった。
生真面目なのか何なのか、日野さんはあれからずっと自習を続けている。
「日野さん。雨……弱くなって来たから、僕はそろそろ帰るよ」
「……もう夕方なの」
言って彼女も教科書とノートを片付けて教室を出て行ってしまった。
この彼女特有のペースは半年以上同じ教室に居ても中々掴めてない。
まあ正直こちらから話し掛ける機会も少なかったし、彼女は彼女で能動的にクラスの連中と行動をともにする事もしない性分だったので無理もないとも言える。
そうかと言って周囲からのコミュニケーションを拒絶しているわけでもなく、きちんと受け答えも行動もするので特別孤立していたりと言った事も無いように見える。
そういう意味から言って、実に不思議なポジションを築いていると言える生徒だった。
僕が一階に降りてくると、先に歩いて行った日野さんが昇降口でぼーっと空を見上げていた。
「帰らないの?」
靴を履き替えて僕が声をかけると日野さんは鞄から折り畳みの傘を出してバサッとさす。
「……もしかして午前中の嵐の中、折り畳み傘で来たの?」
その傘は骨組みもひしゃげて、最早傘としての体を為していない。
「ビニール傘、すぐに駄目になったから」
それはまぁ……そうだろうな。
外を見ると雨はだいぶ弱まったとはいえ、あんなにひしゃげた状態の折り畳みで帰るにはいくら何でも厳しい感じがした。
「……じゃ」
「いや、ちょっとそれで帰るの?」
原型をとどめていない傘をさして歩きだした日野さんを慌てて呼び止める。
体育会系の悟がやってるなら体を張ったギャグで済みそうだけど、普通の生徒ではそうもいかないだろう。
僕は鞄から折り畳みを一本取り出すと日野さんに押し付ける。
「僕普通の傘で来たから、これ使って」
それだけ言って、僕は今朝の風雨で若干歪んだ普通の傘をさして足早に昇降口を出たのだった。
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