第四章 記憶

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 7  私が学校を出て一人で鵜野森神社方面へ向かうと言うのも、よくよく考えると不思議な話だと思う。  朝霧君は久々に高橋君と遊びに行くとか言って、今日は先に帰ってしまった。  まあこの所私が発端とも言えるオカルトめいた一件に掛かりきりになっていたのだし、一先ずの平穏が訪れた時くらい厄介毎は忘れて羽を伸ばして貰った方がいい。  いい、のだけれど。  どうにもこう、自宅以外の方へ帰ると言う事が慣れないと言うか。  そわそわすると言うか。  朝霧君と一緒に帰っている時は正直それどころじゃなくて、色んな考えがぐるぐる駆け巡っている間に鵜野森神社に着いてしまっているのだけれど。  北鵜野森町へ向かう坂道も、坂の上に広がるちょっとノスタルジックな町並みも、何だか不思議な物語の中の舞台なんじゃないだろうかと思ってしまう自分が居る。  特異な事情があったとは言え、それまで縁もゆかりもなかった私をまるで孫娘みたいに扱ってくれる洋子さんや宗一郎さんも、およそ私の人生では出会う事が無かった類の人達だ。  誰とも関わらず一人で過ごしていた時間が長かった私にとって、ここの人達の垣根を作らない独特の距離感は新鮮だった。  勿論それは見る人によって良し悪しあるのだろうけれども、私にとってそれはとても心地好いと思えるもので、ともすれば出来過ぎていて私の心が生み出した都合のいい幻想なんじゃないかなんて思ってしまう程だった。  ……むう。  ダメだダメだ。  ネガティブ要素が割り込んでくるのは悪い癖だ。 「あら、咲さんじゃないの」  一人でぶんぶんと首を振って商店街まで来た私を買い物袋を持った洋子さんが呼び止めた。 「おかえりなさい。今日は一人?」 「は……はい。朝霧君は何だかお友達と行く所があるみたいで」  家に居る時の和服の洋子さんも綺麗な人だなと思ったけれど、外出の時は洋装らしくまた違った印象がある。  いずれにせよ、本当に高校生の孫が居るとは思えないくらい綺麗……と言うか、眩しい人だなと思った。 「あらあら、こんなに可愛い子を放っておいてしょうがない子ね」 「……あ、いえ」  見惚れていた私はよくわからない応答になってしまう。  何が『あ、いえ』なんだ、私は。 「じゃあ、咲さん今日は私に付き合って貰おうかしら」 「……え」 「そこでお茶していかない?」  言って洋子さんはすぐ近くの、煉瓦造りの外壁の喫茶店を指す。 「え……と、いいんですか? お買い物か何かの、途中だったのでは」 「ふふ、いいのいいの。急ぐわけじゃないし。それに私だって偶には美味しいコーヒーを飲んで楽しくお喋りしたいもの」  ……器用に片目を瞑る洋子さんを見て素直に可愛いと思ってしまった。  私には絶対に真似できない芸当だし、そもそも笑顔の上手く作れない私では真顔の女が片目を閉じるだけになってしまう。  人様に見られようものなら朝霧君の洗面所での独り言級の大事故だ。 「ね、入りましょ?」 「あ、はい。じゃあ、ご一緒します……」  私は洋子さんの茶目っ気溢れる仕草と独特のノリに押される形で、喫茶店へ入る事になった。  カランカランと、ドアに付けられたアナログの鐘が鳴る。  カウンターの奥には、白髪の男性の姿があった。  個人経営っぽいお店で他に店員さんも見当たらないから、ここのマスターさんなのかな。  スラっとした体形で、背筋もピンとしているけれど、白髪が八割黒髪二割のその容姿からすると、年齢は結構行っているのかもしれない。 「やあ、いらっしゃい」  少し低めの、けれど威圧感等は感じさせない穏やかな声だ。 「こんにちは。席はどこでもいいかしら?」 「ああ、構わないヨ」 「ありがとう」  マスターさんと挨拶を交わした洋子さんは私をボックス席へ促した。  テーブルや座席には年季を感じるけれど、くたびれているわけではない。  天井には昔の映画なんかで見かける大きな四枚羽根の風車みたいなものがゆったりと回転していた。 「…………」 「ん?ああ、シーリングファンて言う扇風機なんだけれど。……そうね、今の子は馴染みが無いかもしれないわね、ふふ」  あれって扇風機なんだ……インテリアかと思ってた。 「あ……はい。駅前の喫茶店……とかでは、見掛けないので」 「このお店ね、私が学生だった頃からあるのよ?」  洋子さんが学生だった頃って、今から何年前だろう。朝霧君が『四十代って言い張っても多分通る』みたいな事言ってた気がするから五十代なのかな。  そうなると四十年くらい前って事か。  見た感じ禁煙の表示とかも無いし、灰皿らしきものも見える割に煙草臭いとか言う感じもしない。  四十年喫茶店をやっていてあの臭いが染みついていないと言うのは凄い事だ。よっぽど入念に手入れしているのかもしれない。  ともあれ学生の私にとっても過ごしやすい場所なのは確かなようだった。 「何だか、落ち着きます」 「ふふ、良かったわ」  洋子さんはふわりと微笑む。 「咲さん、コーヒーは飲める?」 「は、はい。大丈夫、です」 「圭一さん、ブレンドを二つ頂けるかしら?それとチーズケーキを二つ」 「はいヨ、了解」  ……何ていうか、ここの人達の距離感て、やっぱり凄く近いんだな。  ちゃんとした、目の前で豆から挽くコーヒーなんて飲んだ記憶が無い私が言うのもナンだけれど。  芳醇な香りも、口に入った後じんわり広がる程よい酸味も、正直自販機のそれとは根本的に別次元のものだった。  少し大げさかもしれないけれど、幸せな気分で満たされていくとでも言うべきだろうか。 「お口にあったかしら?」 「はい、とても、凄く……コーヒーって、こんなに美味しかったんだ……」 「お、そいつは光栄だネ」  マスター……もとい、圭一さんは私の稚拙な感想にも気を悪くすることなく笑顔を見せている。 「私がここに通い始めた頃の圭一さんに聞かせたら大喜びね」 「オイオイ、よしてくれ恥ずかしい」 「……?」 「あの頃の圭一さんの淹れたコーヒーったら渋いわ酸っぱいわで皆飲み干すの大変だったんだから」 「そうなんですか」 「……昔の事だヨ」  圭一さんはこめかみの辺りを軽く押さえてカウンターの奥へ引っ込んでしまった。 「楽しかったわ、本当に。もう遠い昔だけれど」  …………。 「何だか、羨ましい、です」  あれ……。 「ここの人達は、みんなあったかくて」  何だ。 「何年経っても色褪せない思い出を、語る事ができるお友達も居て……」  私は何を口走っているんだ。 「私には、思い出話に出来るような過去なんて、これまでありませんでしたから」  こんな後ろ向きな話を洋子さんにするだなんて、何を考えてるんだ私は。 「……す……すみま、せん。何か急に、変な話、しちゃっ――」  しどろもどろになってコーヒーカップへ視線を落とした私の手を、洋子さんの手が包んだ。 「――――……」 「咲さん。人は記憶の積み重ねで生きていくの」  ……。 「楽しい記憶とは限らない。辛かった記憶、悲しかった記憶も全部が混ぜこぜに折り重なって、私もお婆ちゃんになったの」  けれど、いつでも明るく穏やかで、町の人や、素敵な家族に囲まれている洋子さんと比べて、私の歩んできたたかだか十数年の人生は余りに草臥れてしまっているのではないだろうか。  満足に笑う事も出来ず、口下手で、陰惨な中学時代を送ってきた私では、根本的に違うのでは―― 「私ね、小さい頃はひとりぼっちだったのよ」 「――え」 「人に見えないものが見える・聞こえないものが聞こえる事は、いつの時代でも大概気味悪がられるものよ」  ……あ……。 「だから私もね、ずっと一人だったの」  どんな形であれ、そう言う忌むべき慣習はやっぱりこの国の人の心に深く根付いているんだ。  でも……。 「じゃあ、それなら洋子さんは、どうやって……」 「若い頃の宗一郎さんや八百屋の看板娘だった頃の景子さん、それにここで働き始めたばかりの圭一さん達と出会って、お友達になれたから……じゃないかしらね」 「…………」 「心弱くなった時に手を繋いでくれる人が居ると言う事は、何より代えがたい大切な事よ」 「……私……嫌な事、お話させてしまって……」 「咲さん、辛い体験を『仕方が無かった』だなんて思う必要なんてないのよ。だって辛いことは辛い、悲しい事は悲しいんですもの。でもそれは一人で受け止めるには重すぎる事もある」  洋子さんの手が、私の手を少し強く握った。 「だからこそ、手を繋いでくれる人と出会った時には曇り空が一瞬で晴れ渡った様な気持ちになれるし、そうしたら今度は、俯いている誰かに自分が手を差し伸べる事ができるようになるわ」  気が付くと、私はもう片方の手で洋子さんの手を握り返していた。  とても、温かかった。 「はい。……はい」 「――ふふ、大丈夫よ。だって咲さん、こんなにいい子なんですもの。お友達もきっとこれから沢山できると思うわ」 「……ありがとう、ございます」 「それにね」  洋子さんは少し身を乗り出す様にしてまた器用にパチンと片目を瞑って言った。 「お婆ちゃんだから親バカって言うのかはわからないけれど……夢路さんはきっと、繋いだ手を途中で引っ込める事はしない子よ」 「――――あぅ」  唐突に朝霧君の名前が出て、私はまた顔が熱くなってしまう。  そんな私に向かって心底楽しそうに笑顔を向け、洋子さんは『さ、ケーキ頂きましょ』と言ったのだった。  店内の古いスピーカーからは、Jazzピアノの小気味良い曲が流れていた。
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