第五章 傘

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 2  落し蓋の隙間から立ち昇る湯気と一緒に、食欲をそそる香りが漂って来る。  お醤油大さじ3、お酒大さじ1、みりん大さじ1。  洋子さんから教わった煮物の基本的な調味料の分量だ。  これを基本に食べる人の好みに合わせてお醤油の分量を変える。  あとは魚やお肉が、一緒に煮込む野菜にも味を付けてくれるのだ。  すごい。  これはもうちょとした魔法ではないだろうか。  煮物と言えば野菜と鶏肉に火を通して適当にカットしたトマトを投下したラタトゥーユの紛い物みたいな煮込みで大体解決していた私にとって、面倒そうだと敬遠していた和食の煮物が一気に身近に感じられるものになってしまった。 「ふふ、いい塩梅に出来そうね」  鍋と睨めっこをしている私の隣で洋子さんが笑う。  洋子さんは私に手解きをしながらもう一品と、きんぴらごぼうを作っていた。  微笑みを絶やさず料理をしている洋子さんは、横で見ているだけでもその温かさを感じる程だ。  喫茶店で語ってくれたように色んな人生経験の積み重ねがあっての洋子さんなのだろうから、今の私には逆立ちしたってこんな空気は纏えない。  出て行った自分の母親と比較なんてしたら失礼だけれど、小さな頃からこんな素敵な女性に育てられた朝霧君が羨ましいと思った。 「咲さん」 「――は、はい」 「ありがとうね」  不意に洋子さんから『ありがとう』と言われて、私は面食らった。  私からお礼を言う事こそあれ、私は洋子さんにはお世話になりっぱなしだし、お礼を言って貰うような事をした記憶なんてない。 「え……と……」  記憶を掘り起こしても心当たりがなくて頭がショートしそうになった私に、コンロの火を止めた洋子さんはきんぴらをお皿によそりながら言う。 「何だか娘が居た頃を思い出すみたいで、とても楽しいの」  ……娘さん。  今はもう居ない、朝霧君のお母さん。 「どんな方――だったんですか?」 「そうねえ。……破天荒で、喧嘩っ早くて、こうと決めたら絶対に考えを変えない子だったわ」 「…………」  ……私とは真逆の人だった。  洋子さんは言わずもがな、朝霧君からも想像できない。  宗一郎さんの若い頃がどんなだったかわからないけれど、少なくとも厳格な今の印象からはそう言う娘さんが居たと言う風には想像できなかった。 「意外、です」 「ふふ、そうかもしれないわね。けれど、あの子は喧嘩するのも我を通すのも、いつだって自分が関わった人間を笑顔にするためだった」 「……」 「いつだったか体中痣だらけで帰って来た時なんて『私は知らない誰かのために頑張るなんてヒーローみたいな事できない。そのぶん、知っている人のためにならいくらでも踏ん張れる』だなんて言った時があって、宗一郎さんのあの時の困り顔ったらなかったわね」  朝霧君のお母さんの事を思い出して笑う洋子さんをよそに、私の脳内ではだいぶ尖った印象の人物像が出来上がっている。 「朝霧君とは、だいぶ違う感じ……なんですね」  人の性格は大半が後天的な要素で形成されるらしいので、当たり前と言えば当たり前なのだろうけれど。 「そうねえ。けれど夢路さんも、根っこの部分にはそう言う部分が受け継がれているかもしれないわね」  熱血少年漫画みたいなノリの朝霧君と言うのも中々想像が難しい。  サクラの奔放な振る舞いに振り回されている姿から見ても、高橋君なんかと話している穏やかな表情からも。  けれど。  厄島から私の抱えた過去を仄めかされた時も、雨の妖に憑かれた時も、臆さず手を差し伸べて来た彼には洋子さんの言う様な、お母さんから受け継いだそう言うものがあるのかもしれない。 「さて、と」  洋子さんはきんぴらを盛りつけたお皿にラップをかける。、 「私ちょっとお洗濯物取り込んじゃうから。煮物の方、後お願いしちゃっていいかしら?人参にお箸がスッと通ったら火を止めちゃっていいからね」 「あ、はい」  洋子さんが出て行き、後には私と、弱火にかけた鍋が立てるコトコトと言う音だけが台所に残った。  お玉で掬った煮汁を小皿に移して口に含むと、鶏肉から出た旨味と合わさって心の芯から温まる様な感覚になる。  和食、おそるべし。 「む、これは鶏肉の匂いッ……。今宵の夕餉は煮物であるか」  食欲旺盛なサクラが台所へ入って来る。  ふさふさの毛並みに頬ずりしたい所だったけれど、料理中なので我慢我慢。 「今日は、筑前煮」 「こっちのものは?」 「それはきんぴら」 「ふむ。トウガラシの姿が見えるであるな……私は煮物と猫缶を頂くとしようか」  実際の所、猫には食べさせない方がいい食材は人間の食べ物の中に沢山ある。  ネギや玉葱、じゃがいも、イカ、タコ、他にも色々あるし香辛料関係も大体アウトだ。  なので私は少しばかり鶏肉を取っておいて、サクラ用の晩御飯をこれから作るつもりだった。 「煮物も猫には味が濃いし、サクラの分は鶏肉を別に茹でて作る」 「フフン、伊達に百年以上生きてはおらぬ。普通の猫なら駄目な食材も霊獣となった私であれば概ね問題ないのである。あ、でも玉葱は個人的にも好まぬ故、配慮して貰えるとありがたいのである」  霊獣は胃袋も強いらしい。 「まぐろ缶も出すよ」 「あの欧州産のやつであるか」 「うん」 「ならば無理せずそちらを頂こう」  まぐろ缶の一言にピンと立った尻尾が可愛い。 「……咲もここの生活に慣れてきた様であるな」  毛づくろいをしながらサクラが言う。 「うん……。洋子さんも、宗一郎さんも、商店街の人達もみんないい人だし……」 「ここは私にとっても居心地が良いのである。ここの様に人が互いに互いを気にかけて暮らす町は今時中々珍しい。魚屋が猫にも優しいのは稀有である」  ……そこポイントなんだ。 「洋子殿は猫から見ても人間が出来ているし、何より霊格も高い故近くに居るだけでも力が回復していくのである。お若い時分であれば共に妖魔退治も出来たのではないかと思うほどに」 「そんなに凄い人なの」 「うむ」  益々昔の洋子さんがどんな人だったのか興味が沸いて来る話だ。 「そういえば」 「む?」 「サクラはこの家に来る前は、どんな暮らしをしていたの?」  サクラはあまり自分の事を話さないみたいなので、何となく話が弾んでいる今なら聞けそうな気がして、私は思い切って尋ねてみた。 「――ふむ」  サクラはしばらくヒゲをいじって思案した後、 「十数年前は、とある人間に従って妖魔退治をしていたのである。その後は……猫一匹で気ままに全国津々浦々、と言った所であるな」  ……妖魔退治って本当にやってる人居るんだ。 「その人は今一緒じゃないんだ」 「うむ。十年前に鬼籍に入られた故」  鬼籍に入る……亡くなったって事か。 「その頃縁のあったこの町に久方ぶりに立ち寄ったのが先日である。よもや霊力の大半を失って成長したご主人に拾われようとは思わなんだが」  ……え? 「成長した……?」  それは、つまり……? 「おおっと、フフ。私としたことがついご主人の幼少の頃を存じていると言う優位な立場をを自慢――」 「――子供の頃の朝霧君」 「ぬおお近い近い。咲、顔が近いである」  ……いけない。取り乱した。  けれどサクラと朝霧君に昔から因縁があったと言う点は驚きだ。 「まあ?ご主人が童であった頃には猫の姿で会っていなかった故?当時遊んだ相手が私だとは昨日まで気付かなかった様であるし、私も自分から明かす気は当初無かったのであるが……」  そう言い終えたサクラが私の顔をジッと覗き込んでくる。 「……どうかした?」 「――いや、フフ。何でもないのである」  何だか意味ありげな言葉を残してサクラは台所から出て行ってしまった。 「……変なの」  『子供朝霧君』の話の続きに非常に興味があったのだけれど鍋の前から離れるわけにもいかない私は、サクラが出て行った方をしばらく眺めているほかなかった。
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