第一章 猫又

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 2  僕の家は北鵜野森町の小高い丘の上に在る。  昭和の香りが残る古い商店街を抜けた先、鳥居をくぐり丘の上へ続く階段を上った鵜野森神社が僕の暮らす家だ。  宮司をしている祖父と、しっかり者の祖母。  そして僕の三人だ。  この時間は普段なら爺ちゃんが開いている武道教室の子供達が駆け上がっていく姿が見られる頃なのだが、台風と言う事もあって休みにしたのか境内へ向かう階段は寂しげに見えた。  ――と。 「……?」  階段を登り切った所の鳥居の下に、何か丸い塊の様なものがあるのが目に入った。  こんな所にゴミを不法投棄しに来る輩も居ないので、僕はおそるおそる近寄ってみる。 「……猫?」  雨がまだそこそこ強く、夕方前の割に暗くなっているので遠目にはわからなかったが、それは間違いなく猫の様だった。  真っ黒な毛並みで、雨に打たれて身を縮めている。  どう考えても雨宿りできる場所でもない。 「猫、こんな所でどうしたんだ?」  呼びかけると黒猫はチラリと僕の顔を見たが、またすぐに首を下げてしまった。  やっぱり何処かおかしい。  僕は逃げようともしない黒猫を刺激しないように抱き上げて――  抱えた部分がヌメリとした。      「怪我してるじゃないか……!」  野犬にでも襲われたのか、脇腹と後ろ足の部分から血が滲んでいた。 「これ、大丈夫なのか……?」  けれど、バスを使って駅前まで行かなきゃ動物病院なんてないし……。 「……とりあえず応急処置だけでもできないかな」  見てしまった以上、こんな所で弱って万が一死なれてしまっては夢見が悪い。  僕は、冷え切って震えている黒猫を抱え上げて、家の玄関へ急いだ。 「婆ちゃん! 婆ちゃん居る?」  靴も脱がずに大声を上げると、 「あら夢路さん、帰って来るなり大きな声でどうしたの?」  居間の方から朝霧洋子――僕のお婆ちゃんが顔を出す。 「婆ちゃん、コイツ……そこの鳥居の所で怪我してて……」 「あらあら大変ね……」  婆ちゃんは怪我をしている猫に顔を近付けてまじまじと様子を見る。 「あらこの子……」 「どうかしたの?」 「……ううん、何だか見覚えがあるのだけれど気の所為かしらね。嫌だわ歳かしらね」 「まあ、黒猫なんて沢山いるし……それで、どうかな?」      「うーん……雨で冷え切って体力の方が消耗していそうねえ。傷はそれほど深くなさそうだけれど、消毒だけでもしておかないと化膿したら可哀想ね。夢路さん、お湯沸かしてちょうだい。それと、卸していない新品のタオルがお台所の棚にあるから、何枚かそれも出してきてね」 「わ、わかった」  婆ちゃんの指示で僕は慌ただしく動く。  うちの婆ちゃんはこう言う時でも常に冷静で思考の巡りがとても速い。  実年齢の割に背筋もピンとしているし、顔だって下手したら四十代と言っても通るかもしれない程だ。  猫に対する処置は適格で、あっという間に消毒と止血を終えてしまった。 「こんなところかしら」  猫の方も落ち着いた呼吸で眠っている様だ。 「ふふ、お腹の傷が浅そうで良かったわね。さ、お夕飯にするから少し手伝ってくれるかしら?」  結構な歳なはずなのにこの可愛らしいウインクなんてどこで覚えて来るのだろう……。 「ありがとう、婆ちゃん」  僕はちょっと苦笑して座布団の上で眠る黒猫にタオルをかけて婆ちゃんの後に続いて台所へ向かうのだった。 「それで夢路……その猫、お前が飼うのか?」  夕食を食べながら爺ちゃんが僕に尋ねる。  朝霧宗一郎。  鵜野森神社の宮司である。  若い頃は古武道界隈でそこそこ有名だった様で、神社の祭事を取り仕切る傍ら近所の子供達相手に教室を開いている。  古風な気質の人で礼節にはやや厳しいが教室の子供達には懐かれているらしい。 「え……あ、いや………特にそこまで深く考えなかったけど」 「……バカタレめ」  う……何かマズかったのだろうか。  温厚な爺ちゃんなら特に何か言うとは考えなかったのだけれど。 「最後まで面倒を見る覚悟が無いなら生き死にの流れに手を加えるな」 「……う……ごめんなさい」 「儂に謝ってどうする」 「……」 「お前が助けなければ、その猫はその場で衰弱して死ぬのが道理だったかもしれん。それに手を出したのだから、お前には少なからずそやつの命を背負う責任があると言う話だ。手を差し伸べるなら中途半端な憐みを施して放り出すのではなく、最期まで面倒を見ろ」  ……助けた責任、か。 「やあねえ宗一郎さん。歳を取ると変に理屈っぽくなっちゃって」  婆ちゃんが爺ちゃんを諫めたけれど、 「いや、婆ちゃんいいんだ。確かにそこまで考えてなかった。……面倒見るよ、ちゃんと」  僕はタオルにくるまれて寝息を立てている猫の頭を撫でてそう言った。  食事を終えた僕は猫を抱えて自室に戻る。  とりあえずバスタオルを二つ調達して僕の部屋のベッドに一つ敷き、その上に猫、更にその上にバスタオルをもう一枚かぶせた。 「とりあえず今日はこれで我慢してくれよ」  かぶせたタオルの上からポンポンと軽く触れると、「ナー」  小さな声で、猫が鳴いた。      「お、起こしちゃったか。ごめんな」  猫は周囲の状況と僕の顔を交互に見た後、自分の傷のあるあたりを少し気にした様な素振りをして、また僕の方を向く。 「……ナー」 「大丈夫だよ。明日は休みだから、念のため病院連れてってやるからな」  僕がそっと頭を撫でると丸まって目を閉じる。  とりあえず警戒はされていない様だ。  明日は祝日だし、午前中には病院に連れていけるかな。  僕はネットで動物病院の受付時間を確認してから電気を消して布団をかぶる。  猫なんて飼った事なかったからペットショップに寄って猫用の餌とかトイレとか色々必要なものを見て回った方がいいかもしれない。  首輪はついてなかったから野良だったんだろうし、そうするとトイレの躾だってしないといけないんだろう。 「大忙しだなこりゃ」  誰にともなくそう呟きながら正直、僕は少し安堵していた。  部活に出なくなってから二ヵ月が経つ。  家の道場で稽古をする事も減ってしまい時間を持て余し気味だった僕は、ひょっとしたらこの出来事を、前に進めなくなっている自分を誤魔化して見て見ぬ振りするための、体の良い言い訳にしたいのかもしれない。  ……もう寝よう。       微かな猫の呼吸音を聴きながら、僕は半ば無理矢理眠りについた。  ……何だかむずむずする。  さっきから顔の辺りを何かふわふわした物が往復している。  何だ、これは。  僕は眠たい瞼をどうにか開ける。 「……お前ね」  顔面をふさふさの尻尾で延々撫でまわされればそりゃあ起きると言うものだ。  僕が渋々上体を起こすと、猫は布団の上に乗って僕の顔をじっと覗き込んでくる。  頭を撫でてやると、気分が良いのか目を細めて少し伸びをしてみせた。 「……はは。随分人懐っこいなあお前。本当に野良だったのか?」  けれどもまあ、動きは思ったよりしっかりしているし、婆ちゃんの手当のお陰もあるのだろう、この分なら案外早く完治するんじゃないだろうか。 「しっかし……」  元気なのはいいけど今何時なんだ……?  カーテンの隙間から見ると、外はまだ薄暗い。  時計を見るとまだ五時過ぎだ。 「……流石にこの時間に起きたってやる事ないぞ」  ペットショップだってやってないし、動物病院だって十時からだ。  五時過ぎなんて爺ちゃんが起きるか起きないかくらいの時間じゃないか。  何にせよもう少し寝ていたい。  僕は再びドサッと布団に倒れ込むと無理矢理目を閉じる。 「ふわ……悪いな猫……もう少し寝かしておいてくれ」  ……。  …………。  ……顔の辺りがむずむずする。  目を開けると、案の定また例のふさふさした尻尾が僕の顔を撫でまわしていた。  おそらく先程からまだ三十分くらいしか経っていまい。  何だ、何なんだ。  これは少しかまってやらないとダメか。  身を起こして猫の顔をムニムニとやりながら、 「休日の早朝から叩き起こすとかお前はお母さんか何かか」 「ふむ。私としては伴侶のごとく愛情表現たっぷりに起こしにかかったつもりであるが」 「誰がいつから僕の奥さんになったんだよ。そもそもお前昨日出会ったばっか……り……で……」 「……」  ……。 「……?」 「…………」 「…………?」 「…………え……と」 「……ご主人は案外奥手であるか?」 「のおおおおおおおおおおおおおおい!」  早朝の鵜野森神社に僕の叫びが響き渡った。
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