第二章 咲

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第二章 咲

第二章 咲 1  まだ静かな商店街を走り抜け、風を切って自転車を走らせる。  我ながら大変荒っぽい運転になっているとは思うのだが、背に腹は代えられない。 「快眠にも、程がある、だろ!」  朝一から立ち漕ぎ全力投入は流石にしんどいと言わざるを得ない。  実際昨夜は、サクラの怪しさ極まりない能力で快眠だった。  目覚まし時計の音も全く効果が無い程の。 「あーくっそ、腹も減るし時間は無いし!」  携帯の時間を確認している余裕はない。  朝食も食べずに婆ちゃんの前を駆け抜けて家を出たのが七時五十分。  階段下で自転車に乗って、商店街に突入したのが五分後だから七時五十五分であろうと思う。  ホームルームが八時十五分からで、十分に駐輪場に居れば何とかなるから学校まであと十五分で着けばどうにか間に合う算段である。 信号込みでの話だが。 「……弁明は?」 「…………ありま……せん……」  結局ホームルームに間に合わずに教室へ駆け込んだ時には担任の山崎先生が教室を出ようとしている所で、すこぶる渋い顔をされてしまった。  先月恋人に浮気されて別れたらしく、ここの所余計に虫の居所が悪い。 「……まあ朝霧君は遅刻は初犯だから課題増量二割り増しで勘弁してあげます」 「……はい」  限りなくパワハラ案件に近い感じもするのだが、拗れると厄介すぎるので大人しくやり過ごす事にした。  チャイムが鳴って先生は出て行き、僕は肩で息をしながらよろよろと席に着く。 「……寝坊?」  ぐったりする僕に、隣から日野さんが声を掛けて来た。 「へ?……ああ、うん」  昨日彼女のバイト先で話したとは言え、彼女の方から学校でこんな風に話を振って来るのは初めてかもしれない。 「……寝癖」 「……?」  僕がきょとんとしていると、 「……跳ねてる」  彼女は自分の頭の右上あたりを指差す。  ああ、寝癖ついてるって事か。  飛び起きてそのまま着替えて全力疾走だったからなあ、全く気にしている暇が無かった。  何となく言われた辺りを手櫛でならしてみる。 「おさまったかな?」 「……大丈夫」  そう言うと日野さんは無表情のままグッドのサインを出した。 「……あ、えっと……ありがとう」  何というか、彼女の距離感は非常に特殊で掴みづらい。  一見、もの凄く他人との距離が遠い様に見えていたのは僕の見当違いだったのかもしれない。  思考が今一追い付かないでいるうちに再びチャイムが鳴り、先刻出て行った担任の山崎先生が入って来る。  ああ、一限日本史だったっけ。  急いで教科書を取り出そうと鞄を開けると、 「……荒っぽい運転で酔ったのである」  …………何故お前が居る。  教室中の視線がこちらへ集まった。  勿論コイツの言葉ではなく『ニャー』と言う猫の鳴き声が僕の所から聞こえたと言う事で皆は振り向いたんだろうけれど、何というかその時点で既にアウトである。 「……朝霧君?」  山崎先生が頬を軽く引き攣らせてこっちを見ている。 「えーっと……何か……ウチの猫……なんですけど、はは」 「……それで?」 「バッグの中に侵入してた……みたいです」  クスクスと押し殺したような笑いに包まれる教室内。  席の近い者は身を乗り出してこっちを覗き込んでいる。  先生は心底疲れたような溜め息をついて、 「……はぁ……逃げ出されて校内で騒ぎになっても余計に疲れるし、大人しくさせられるならこの時間だけは大目に見るけど……。一限終わったら職員室に預けるわよ」 「……すみません」  謝りながらジト目でサクラを睨みつける。  当の本人はどこ吹く風で、バッグの中から首だけ出して教室をキョロキョロ見回していた。  コイツ……。  とりあえず気を取り直して教科書を出そうとサクラの入っているバッグの中に目をやる。  ノート。  サクラ。  ……以上。  ……殆ど空っぽじゃないか。  どうやら自分がバッグに侵入するために、僕が中に入れておいた教科書とか出してしまっていた様だった。  無法者にもほどがある。 「……見る?」  状況を察したのか日野さんが隣から教科書を寄せてくれた。  彼女が能動的に助け船を出してくれる事は数日前までは考えられなかったので、ここ数日のやりとりが結果的に功を奏したと言うべきなのか。 「ありがとう、助かるよ」  バッグの中でかろうじて生き残っていた大学ノートだけを取り出して、サクラが授業中余計な事をしない様に祈りつつ板書を写し始めた。 「佐賀の鍋島・龍造寺の名前は江戸時代になっても藩主と家臣として残っているのだけれど、ここの鍋島直茂が主君であった龍造寺隆信の死後に藩の実権を握る様になってから、主君だった龍造寺隆信の孫が急死したりしてお家がゴタゴタになった事があるのね。それで慰霊のためにお寺を建てたりして供養したりするんだけど、その様子に尾鰭が付いて、化け猫の祟りって事になって有名なお芝居にもなったりしたのよね」  サクラの方に時々目をやりながらわざとらしく話をしている。  山崎先生の授業がどうでもいい雑学に脱線する事はいつもの事なのだけれど、これは最早当てつけ以外の何物でもない気がする。  まあ結果として学校に飼い猫を持ち込んだ形になっているのをお目こぼしして貰っている状況なので僕は苦笑いでやり過ごすほかない。  サクラの方は『化け猫と一緒にしないで欲しいのである』とか何とかブツブツぼやいているようだった。  ……何でもいいから静かにしておいてくれ。    じたばたともがいているサクラを担いで職員室へ向かう。 「ご主人と離れるのは嫌である、ご慈悲である」 「彼女かお前は。学校まで付いてきちゃダメに決まってるだろ今日は半日で終わるから我慢して待ってろ」 「朝霧君……その猫とそんなに仲いいの」  ……日野さんが付いてきているのは何故なんだ。  昨日の店での食い付きと言い、余程猫好きなのだろうか。  普通の人にはまあニャーニャー喚いてる猫とじゃれあってるだけの様に見えるんだろうけど、話しかける内容によっては変な人だと思われかねない気がしてきたから気を付けないと。 「仲いいって言うか、まあペットの躾ってみんな言葉と動作でするんじゃないの?猫、頭いいって言うしさ」  取って付けた言い回しで適当に言い訳をならべてみたが、我ながら胡散臭い事この上ない。 「……一昨日拾ったって言う話にしては、随分懐かれてるみたい」  日野さんが僕とサクラの顔を交互に見ながら言う。 「え?うーんまあ猫の好みはよくわからないけど、何なんだろうね……」  まさか『空飛んでいた所に雷が直撃してウチの神社に墜落してた猫妖怪を助けたら異常に懐かれた』なんて話をしても、僕が頭おかしいと思われるだけだろうし適当に流しておくのが無難だろう。  僕達は職員室で山崎先生の指示を貰い、用務員さんの休憩室で放課後までサクラを預かってもらう事になった。 「別れ際に制服の裾に飛び付かれたせいで何かひっかき傷みたいになってる……」 「遠目にはわからないと思う」  この先度々学校に着いてこられたりしたらたまったもんじゃないな。  今度からバッグの中も確かめてから家を出ないと。  二人で教室に戻る途中、廊下で後ろから悟に呼び止めれられた。 「夢路……って、日野と一緒ってまた珍しい組み合わせだな」 「え? ああ、ウチの猫の事でちょっと」 「朝霧君の猫の事で、ちょっと」  何の説明にもなっていない気もするが、それ以上説明のしようもない。 「……よくわからんけどまあいいや。夢路、ウチの部長見掛けたら連絡くれねえか?」  そう言った悟は何か少し慌てている感じだった。 「サッカー部の部長って、総体終わってから新部長になった、あのガタイのでかいD組の……相良って人だっけ?そりゃ構わないけど、メールとかSNSとかは?」 「一昨日から反応が無ぇんだ。教室行ってみたけど学校にも来てねぇ」 「自宅とかは?」 「アイツ、一人暮らしなんだよ。親御さんは海外みたいで」  ……それは確かに心配にもなるな。 「今日、帰りに他の部員と自宅行ってみる。風邪とかで寝込んでケータイ電池切れてるの気付いてないかもしれねーし。とにかくどっかで見かけたら頼むわ」  そう言って悟はまた、おそらくその部長の電話に掛け直しながら教室に戻って行った。 「……行方不明?」 「いや、どうなんだろう。男一人で大風邪でもひいてたら、僕だってスマホの電池切らしたまま充電もせずに寝込むかもしれないし」 「そうなんだ」  保護者に看病してもらえる環境が当たり前に思えてしまうけれど、一人暮らしならそう言うわけにもいかないだろう。  僕も仮に爺ちゃん婆ちゃんが居ない土地で一人暮らし中に寝込んだら、食事だって作る気力がわかなければ冷蔵庫の中のプリンだの何だのでも食べて誤魔化すのが容易に想像できる。 「まあ男は特にそういうの適当だからなあ」 「あ、次授業始まる」  日野さんが時計を見て少し足早になったので、僕も急ぐことにした。   一通りの授業とホームルームが終わって、皆めいめい部活だ帰宅だと教室を出ていった。  僕は伸びをしつつ背もたれに寄りかかる。  教科書は日野さんに見せて貰っていたのでウトウトするわけにもいかず、割と真面目に授業を受けきってしまった。 「日野さん、教科書ありがとう。アイツのせいでどうなる事かと思ったけど助かったよ」  僕が礼を言うと彼女は教科書とノートを鞄にしまいながら『ん』と短く返事をし、 「朝霧君。それより猫、引取りに行こう」 「……え?うん、まあ引取りには行くけれど」 「行こう。すぐ行こう」  ……。  急かす様に席を立つ。  何故日野さんも行く流れなんだ。 「ひょっとしなくても、日野さんサクラの事相当気に入ってる?」 「サクラって、あの子の名前なの」 「近い近い。日野さん近い」 「……猫は、別格」  食い付きが激しい。  一体何がそこまで良いのか分からないが、猫が絡むとやはり彼女はこれまで僕が見ていたキャラとは大分かけ離れた印象になるようだ。  隣で『そうか、サクラって言うのか』とかブツブツ言いながら若干鼻息を荒くしている時点で僕の中では面白キャラの範疇に入りつつあった。  何にせよ、あんなお騒がせ猫をいつまでも用務員さんに預かって貰っていては申し訳ないのでサッサと回収してしまおう。 「そう言えば朝霧君」 「ん?」 「一昨日拾って昨日動物病院に怪我を見せに行ったって言ってたけど」 「うん、そうだね。まあ怪我の方はそれほど大事なかったみたいだから」 「予防接種とか……あと感染症も診て貰った?」  日野さんの言葉に思わずポカンとする。 「…………えーっと」 「野良猫だったなら、ノミとかそういうのも診てもらわないと駄目」  あー……全然考えてなかった。  そもそも霊獣って感染症とか罹るんだろうか。  雷に打たれて死なない猫が病気になるのは想像つかないのだけれど。 「あー……色々買ったから残高が今心もとなくて――」 「駄目」 「……はい」  凄まれてしまった。 「……どのくらいかかるのかな……」 「予防接種に五千円くらい。他の雑多な診療合わせて一万円くらい」  ……また僕の学校での食生活が質素なものになっていく。 「僕には運動部御用達の貧乏パンすら買う事が許されないと言うのだろうか……」 「貧乏パンて、何」 「いや、購買で売ってるあの、半球状のデカいだけで味が特についてないやつ」  僕の説明に日野さんはしばらく該当するパンを思い起こしていたようだったが、該当商品が思い当たったらしく、 「あれ、そんな名前なの」  声が少し震えているので笑いを堪えている様に思えた。  用務員室に入った途端、サクラが顔面に飛び付いてくる。 「うわっぷ、ちょっと!やめろっておいサクラ!」 「こんな所に置き去りにするなんて最低のご主人である」 「苦しいから離れろって!」 「朝霧君羨ましい」 「日野さんもわけわかんない事言ってないでコイツを何とかして!」  一向に離れようとしないサクラを無理矢理引き剥がしてもらう。  くそ、コイツ最後ちょっと爪立てたぞ。 「ああ、ふさふさ」 「おおお、ご主人この娘いきなりこの距離感とか少々おかしいのではないのか?」  ……どの口が言ってるんだ。  呼吸をやや荒くしながらサクラを抱き抱えて真顔のまま頬ずりを始めている日野さんに任せておけば案外サクラの好き勝手やり放題を抑えておけそうに思えたので、僕は用務員さんにお礼を言って下校する事にした。  途中すれ違う生徒たちに奇異の目で見られながら昇降口まで来た所で日野さんが駅前へ行こうと言い出した。  無理矢理にでも動物病院へ行かせるつもりらしい。  まあ飼い主として責任は全うする話を一昨日爺ちゃんにもしたばかりだし、コイツが感染症なんかに罹るかどうかはともかくとしてノミやらついてたらそれはそれで衛生上よろしくないのは確かだ。  僕は少し悩んだものの、なけなしの貯金を下ろしてこの案件を片付けてしまう事に決めた。 「ご主人、どこへ向かっているのであるか?」  日野さんに抱き抱えられたまま観念して大人しくなっているサクラが、住宅街ではなく駅前方面へ向かっているのに気付いたのか、キョロキョロしながら聞いて来る。  ……日野さんが居る前で僕に猫のお前相手にどう回答しろって言うんだ。 「……いい子にしてたら美味いキャットフードを買ってやるからな」 「それはまことか」  とりあえず黙らせるために頭をポンポンとやりつつ食料の話で丸め込む。 「お店に猫缶特上、あるよ」 「よし、じゃあそれだ」 「ようやくご主人も霊獣の敬い方がわかってきたのであるな」  サクラはまだ見ぬグルメに沸き上がる興奮を隠しきれない様だった。  ――そして。 「裏切者―ッ!」  昨日行ったばかりの動物病院にサクラの叫びが木霊した。
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