第三章 雨

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第三章 雨

 1  朝霧君と飼い猫のサクラと、ショッピングモールの入り口で別れて家路につく。  私の自宅は鵜原南なので普段はバスを使う所だけれど、何だか今日は歩きたい気分だった。  秋と言うには早い、夏の終わりのまだ少し暑い街の空気。  見慣れた住宅街。道行く車。行きかう人。  もう何年もそれらがどんな形をしていて、どんな大きさをしていて、どんな表情をしているかなんてまるで興味が沸かなかった。  私の眼に映る景色は、何だか灰色ばかりだったのに。  空も、建物も、街路樹も、車も、人も。  みんな白黒の、昔の写真みたいに思えていたのに。  何故だか、そうしたものに少しずつ色が戻っていくような気がしていた。  友達だった人たちが友達でなくなって、私の見る世界からは段々と色が抜けて行った。  唯一弱音を話せた飼い猫が死んで、少しだけ残っていた色味も感じ取れなくなったのだ。  笑い方がわからなくなって、もう随分になる。  人と楽しく円滑な関係がはかれなくなった私にできたのは、せめて波風を立てずに平穏に過ごし、必要最低限のコミュニケーションは拒絶せずに事務的にこなす事だった。  そうして居れば、仕事の事で悩んでいた親に余計な心配をかけることもなく生きていける。  高校だってそうやって我慢して過ごせば、余計なトラブルに見舞われる事もない。  だから一年の時もそうしていたし、二年に上がってからも事務的な事以外で人から話しかけられたりしないようにしていた。  ――なのに。  朝霧君は、変わってるよ。  昨日のあんな話を横で聞いていて、関わったらめんどくさそうなのは明白だろうに昨日の今日で『友達になろう』なんて酔狂にも程がある。  普通ならよっぽどお人好しなのか打算があるのかなんて考えてしまうのだろうけど、猫一匹に翻弄されてあたふたしている姿を思い出すと、ほんの一瞬でも勘繰ってしまいそうになった自分が卑屈に思えてしまう。  ……いけないいけない。  せっかく私の過去の人間関係を垣間見ても尚、灰色の世界から色のある場所に連れ出してくれる友達ができたのだ。これは多分、もっと喜んでいいんだと思う。  更に言うと、天使にも等しいほど可愛いサクラと言う猫とも知り合えたのは運命と言って良いのではないだろうか。  私は笑顔……の作り方がもうよくわからなくなっていたので、代わりに拳を握って小さくガッツポーズを作ってみる。  ……うん。多分いい感じだ。  今すれ違った人がちょっとビクッてなったけれど。  こちとらもう何年もまともに作り笑いすらしていないのだ、致し方ないだろう。  でも、朝霧君とサクラとなら、そのうち忘れていた笑い方だって思い出せるんじゃないだろうか。  そうしたらきっと、家でも少しは明るく振舞える。  自分の心の持ちようだけの問題なら、無理に嫌な思い出と向き合って克服する必要なんてないのだ。  そうだ、バイト代が入ったらサクラに何か猫缶以外の物を買ってあげようか。  何がいいだろうか。  立ち止まって猫グッズを検索する。 カシャカシャじゃらし、コロコロボール……、にゃんこアスレチックハウス……。  このあたりはまあ、ありきたりと言えばありきたりだ。 「猫用ねずみ型抱き枕……」  一周廻って色々業が深い気もするが、これにサクラが飛び付いている姿を想像するだけで幸せになってきたのでアリかもしれない。 検索を続けていくと猫用のおもちゃもしばらく見ないうちに沢山出ていて、ウチの店の品揃えも考えて貰わないといけない気がした。  ああ、何かいいな。  誰か(私の場合は猫だけど)が喜ぶ姿が見たくてあれこれ考えるだなんて何年ぶりだろうか。  大丈夫。 私はきっと、取り戻せる。  失った時間も、友達も。  世界は色を取り戻し始めている。  足取り軽く、空を見上げて。  これから一つずつ、楽しい事を増やして行けばいい。  私は、もう一度―― 「さーき♪」  横から不意に自分の名前を呼ばれた事に気付いた。  そちらへ顔を向けると、見覚えのある顔が在った。  昨日モールで声をかけてきた中学の同級生――厄島と.、同じ制服を着た生徒二人だった。  なんてことだ。  私は、バスで帰らなかったことを心底後悔した。 「いーとこ来たじゃん」  さも親交の深い、長年の親友のように無垢な笑顔で歩み寄って来る。 「…………」 「今日はあの彼氏一緒じゃないんだ?」 「……朝霧君は、そういうのじゃない」  私が睨むと、そんなことまるで意に介さない厄島は私の背中をバンバンと叩き、 「まーた照れちゃって咲はかわいいなー」  ……などと笑い出す始末だった。  何なのだろう。  こいつの距離感はハッキリ言って、理解の範疇を超えている。  けれど、世の中には現実として存在する。 中学卒業までの数年間、人に遊び金を集り続け、自分はちゃっかり多数派コミュニティーの中心に居続けて『誰とでも仲良く友達想い』であるかのようなポジションを築ける人間と言うものが。  そしてそれを悪い事だと言う自覚を持たない人種と言うものが。 「ねーねー、暇なら遊び行こうよ」  私は手を伸ばしてくる厄島を振り払い、後ろを振り返らずに走り出した。 「ちょっと咲?」  厄島が私の名前を叫んだが、無視してそのまま走り続けた。  私の世界は朝霧君とサクラのおかげで少しずつ色を取り戻し始めた。  それは多分、素晴らしい事だ。  ものの形、街の音、友達の表情一つ一つに一喜一憂する事ができる事は、きっと人生を豊かにできる。  けれど、それは同時に、忌まわしい事も白黒の世界に追いやって見ないようにする事が難しくなる事でもあるのかもしれない。  嫌だ。  嫌だ。  色鮮やかな世界を感じられるようになった事で、自分の心の奥底にあるものの黒色の濃さが際立って感じ取れる。  追いやったはずの記憶が掘り起こされる。  真っ黒になるまで塗りつぶしたのに。  見えなくなるほど遠くに捨てたのに。  それは記憶からゆっくりと這い出して。  私の首筋に指を這わせて。  誰か。  お願い。  誰でもいい。  いや。  朝霧君。  私を。  ここから。  どうか。  全力で自宅へ駆け込んだ私は自室のベッドに倒れ込む。 「助けて……!」  得体の知れない感情が私の心から溢れ出して、それを何かが旨そうに咀嚼する音が聞こえた気がした。
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