茶室――侯爵と藤春

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茶室――侯爵と藤春

 神楽坂をだらだらと上り、少し下ってまた上る。神社の裏手、崖のようになっているところにその館はある。本館と渡り廊下で四方に繋がる別館からなる風変わりなつくりの洋館は、四つの別館が春夏秋冬の名を冠することに因み、四季館と呼ばれている。  今回は春の館こと東の別棟に住む藤春の話をしよう。  ほーほけきょ、と澄んだ声がした。 「今年もうまく仕込んだな」  茶碗をひざ元に下ろし、侯爵が口元をやわらげた。ごく細かい縞が入った深みのある縹色の紬に献上帯、銀鼠の羽織というごくありふれたいでたちだが、骨の髄までしみ込んだ端正な挙措から公家華族という出自がにじみ出ている。そろそろ四十も半ばを過ぎる頃だが、まだ壮年と言うべき活力が芯に残っている。 「今年の初音です。去年と餌を変えてみたんですが、悪くない」  飼い主も柄杓を手から下ろし、面を安堵に微笑ませた。目が二重で眉もきりりとしているので、真剣な顔がほどけると一気に幼い印象になる。明るい御召の着物が、その桃の花が咲きこぼれるような笑みをいっそう引き立てた。明治いらい鴬の飼育は法律で禁じられるようになったが、昨年四季館の庭で傷ついた鴬を拾ったのをきっかけに、藤春は鴬合を始めていた。といってもニ羽を競わせるだけの、維新の前とは比ぶべくもないささやかなものである。 躙り口から入り込む風もどこか柔らかい。手に喉に腹に茶の温かさが沁みる季節は、いつの間にか過ぎてしまっていたようだった。  侯爵が茶器と茶杓を作法通り眺め、茶事がひと段落したところで朧月会の話になった。これは侯爵が月に一度主催する趣味人の集まりで、誰かが手に入れた絵を鑑賞したり茶会をしたりと、その時々によってさまざまな遊びに興じるものだ。 「次は再来週の日曜日にしようと思うのだが、どうだろうか」 「承知しました。急に伺えなくなるかもしれませんが」  集まる日を決める時、侯爵は必ず一度藤春に確認する。これは彼が体調を理由に参加できなくなるのを極力避けるためだ。  藤春は季節に一度、7日間ほど家にこもりきりになってしまう。しかし病気ではない。彼が「丙種」であるが故に起こる「発情期」のためだ。
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