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春眠暁を覚えず、と言うには早すぎる時間だった。顎をくすぐられているような気がして藤春が目を覚ますと、夏至に向けて長くなり始めた日のとっぷりと暮れた暗い部屋を、ランプの光がぼんやりと照らしていた。
「起きたかい」
耳元の声にかすかに頷いて、輪郭をなぞる手に甘えるように頬を寄せた。侯爵はもうすでに身支度を整えていた。それが何を意味するかわからない藤春ではなかったが、かすかなのぞみを込めて尋ねた。
「夕食を召し上がって行かれますか」
声は少しかすれていた。今から厨に伝えるのでは急すぎるが、それでも何かしら拵えてはくれるはずだ。藤春のぶんを分けてもいい。
骨のしっかりとした男らしい親指が唇を撫で、頬の柔らかさを堪能するとするりと逃げてしまった。
「いや、今日はこのままお暇しよう」
「お上がりになったらいいのに」
撫でられた唇がほんの少し尖る。侯爵は愉快そうに眼を細めてそこにくちづけた。
「明日は朝が早いんだ。夕食を馳走になったら、そのままここに泊まり込んでしまうだろう? 明朝、お前にせわしない思いをさせるのも申し訳ない」
「そうですか」
藤春は引き下がった。これ以上言葉を重ねても侯爵が今から帰ることに変わりはない。
「車を呼びましょうか」
「もう呼んであるよ。ほら、音が聞こえる」
手回しの良いことだ、と喉まで出そうになる。侯爵を困らせてはいけない。それでも指先は背広の裾にすがりついた。
「今度お会いできるのは、いつですか」
「さぁ、いつかな。次の朧月会には必ず会えるだろう」
寂しさを慰撫するように、侯爵は藤春を一度やさしく抱擁した。西洋人が別れ際にする抱擁と同じだった。
侯爵は優しい。しかしその優しさはいつだって残酷だ。できない約束をして藤春をがっかりさせることもなければ、一瞬の甘やかな夢に浸らせてもくれない。
車を見送ってから部屋に戻ると、枕の上に一筋光るものがあった。藤春はそれをつまみあげて息を吹きかけ、ふわふわと落ちるのを飽きずに見つめていた。そして床に落ちる前に見えなくなってしまったそれを顧みることなく、長着をひっかけて母屋の台所へと歩いていった。
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