茶室――侯爵と藤春

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 台所には先客がいた。 「おや、珍しいですねこんな時間に」  秋の館こと西の離れをねぐらにする桔梗だった。糸杉のようにほっそりと背が高く、白い寝巻姿はまるで幽霊に見える。歌手としてあちこちの舞台に出ているが、それよりも方々で流す浮き名の方が有名だ。 「侯爵を見送っていたんだ」 「あぁ、あのつれない人」 「……また、噛んでくれなかった」  うつむいてわずかに唇を尖らせる藤春の肩をなだめるように抱いて、桔梗は台所の小さな丸椅子に並んで座った。桔梗のたっぷりと長い猫っ毛が藤春の頬をくすぐる。 「侯爵はあなたをきっと子供のように思っているんですよ。自分が守ってやらなくては、とね」 「あのことのせいだろうか」 「それはわかりません。でも、きっとご自分の匂いをつけて、あなたがおかしな輩に絡まれないようにしてらっしゃるんでしょう」 規則正しくぽん、ぽんと藤春の肩を叩きながら紡がれる言葉は、幼い子に言い聞かせる兄のようだ。藤春の三つ年上で弟もいるため、桔梗は時おり兄のようにふるまうことがあった。末っ子で甘やかされるのに慣れている藤春も、それに甘えているふしがある。 「匂いをつけるだけでなくて、噛んでくれればいいのに。番になってしまえば、僕はもうあの方のものだ」 「そう簡単な話ではありませんよ。いちど番になってしまえば、あなたはもうあの人から離れられない。たとえ『運命の番』に出会ったとしてもね。……あの人はそれをご案じなさってるんじゃないですか」  甲種が丙種の項を噛み番となることで、丙種が発する特殊な「匂い」はなくなる。そのため、発情期であっても家に引きこもることを与儀なくされる生活を送らずに済む。何より番の結びつきは強い。侯爵には常に不特定多数の誰かの影があり、自分が一番であるという確証がどうしても欲しかった。
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