1 ひらがな

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 狩野(かのう)舞は生粋の日本人だが、親の仕事の都合で幼いころは欧米圏を転々としていた。父親が亡くなって母と共に帰国した後も幾度か居を替えたが、いずれも大都市のベッドタウン。だからきっと、知識としては持っていても、実体験が乏しいのだ――つまり、幸いにも、自分が音訓差別(・・・・)の対象であることを実感する機会のないまま育ったのだ。  訓読み姓に生まれたというだけで、音読み姓の人間から蔑まれ、就職や結婚の障害になる時代があったことを、最近の子どもたちは知らないだろう。今年で二十八歳になる志賀(シガ)優駿にしても、日本は平等な国だと信じて育ってきた。訓読みのクラスメイトが、それだけの理由でいじめられたという話も聞いたことはない。  そもそも、日本の苗字の大半は訓読みだ。一握りの音読み姓が大多数の訓読み姓の上に立つピラミッド構造なんて、完全に時代遅れなのだ。  と、理性ではわかっている。だが優駿は、差別感情が理性とは別の原理で伝わるということも、身をもって理解している。  例えば父だ。厨房にも入るしスマートフォンも使いこなす現代的な父親ではあるが、こと音訓の問題になると、人が変わったように頑迷だった。野球中継でひいきのチームの選手がエラーしたときに、「ちっ、だから平仮名は」と舌打ちする父の横顔は、幼心にも恐ろしかったものだ。     
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