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 くうん、とメルの甘える鳴き声がした。うとうとと舟を漕いでいた彩都が瞼を開けるのと同時に、後ろから温かな胸に背中を包み込まれる。そして、冷えた空気のなかに漂う爽やかな牡の香り。彩都は前に廻された腕にそっと手を添えた。 「おかえり、稜弥」 「ただいま。まだ夜は冷えるのに、こんな薄着でうたた寝をしていたら風邪をひくよ」  スーツ姿の稜弥が、その腕に持っていたブランケットを彩都の肩にかけてくれた。 「それにこんな時間まで庭にいて。……誰かと話をしていたのか?」  テーブルの上のタブレットと飲みかけの紅茶のカップを見て稜弥が彩都に尋ねる。彩都は「宣親と紗季とね」と言うと残った紅茶を飲み干した。 「食事はもう済ませた?」 「実はまだなんだ。明日は久しぶりに稜弥も休みだし、一緒に食べたいなと思って」  昔、現地調査で宿泊していた小学校は古い校舎は取り壊され、新しく二人のための邸宅が建てられた。グラウンドも彩都の研究用に広い庭園となり、温室や花壇が設えられて、この時期はソメイヨシノに山桜、しだれ桜が競い合うように見事な花を咲かせている。  彩都はその桜の花のひとつひとつに慈しみの眼差しを送ったあと、背後で同じように花を見ていた稜弥に振り返って、 「稜弥、食事の前にまた連れていってくれる?」  彩都がテーブルに立てかけていた杖を手にした。桜斑病の影響で、今でも右足に少し痺れが残っている。でもリハビリのために日ごろから杖を突いて、なるべく歩くようにしている。  稜弥は杖を取ろうとした彩都の手をやんわりと遮ると、肩にかけたブランケットごと彩都を抱きあげた。重たいよ、と言いながらも、彩都の両手は自然に稜弥のしっかりとした肩に廻された。 「メル、お前は留守番だ」  ついてこようとしていた愛犬に言い残して、稜弥は春の花咲く庭を横切っていく。家の裏山の綺麗に整備された坂道を登る稜弥の腕の中から、彩都は森の緑や夜空の星を眺めた。
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