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第一章 姫君のお床入り
1・
治政が厩で、多寿姫を手籠めにしてから、はや一カ月。
あれからずっと治政は、上屋敷の全員の冷たい視線にさらされている。
ご朱殿の側にも寄れない日々に、そろそろ忍耐が切れかかっていた。
「元をただせば、姫は儂の妻ではないか」
正論を振りかざしての虚しい抵抗も、姫とともに育った常府の藩士や奥女中には、許しがたい暴挙としか写らないらしい。
江戸家老の説教も、耳に胼胝ができるほど聞かされて、聞き飽きた。
曰くである。
「これまで、あれ程までにお床入りを一日伸ばしにした挙句に、厩の藁の上でことに及ばれるとは、呆れてものも言えませぬ。どういう御所存か、しかと承りたい」と、それはもうクドクド・・と。
然も、とうのご朱殿様がショックのあまり、自室から一歩も出ぬとあって、ほとほと困り果てた。
「のう、儂はご朱殿の名前さえ、碌に知らなんだのじゃ。如何したら姫の機嫌がなおるかのう」
いつもの苛烈さが影をひそめた気弱な治政の苦り切った言葉に、流石の江戸家老の顔にも苦笑いが浮かんだ。
目下のところ治政は、国表の沙保里の方にした約束と、多寿姫が欲しいと言う欲望の板挟みにあっている。
苦り切った若殿の様子に、近習の諏訪新之亟が、またも助け舟を出した。
「先ずは、ご朱殿様のお側に仕える奥女中から、懐柔されては如何でしょう」
「ウ~む。然しのう、小督の局などは儂の目の前で失神したのだぞ」
治政が姫をその腕に抱き上げ、厩から戻って来たのを見た小督の局は、あまりの衝撃にヒキツケを起こして失神したのだ。
あれ以来、治政の前に鉄壁の障害物となって立ちはだかっている。
「致し方ござらん。ここは殿の乳母どのに、小督の局と話し合ってもらうしか御座るまいと存ずる」
と言う訳で、備前岡山藩池田家の上屋敷の奥を仕切る治政の乳母・諏訪どのの登場と相成った次第。
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