第一章 着任前夜

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「売買されていると噂されているのは、他愛のない個人情報らしい。それも、名誉棄損になるようなデリケートな情報じゃない。個人の趣味や行きつけの店、好みのファッションなんかの、世間話に出てきそうな情報らしい」 「聞いたことあるな。好きな女の欲しいものの情報を買って、それを片手に告白した奴がいるとか……」 「そう。そんな類の情報だ」 「お前が動くほどのことか?」  俺はビールで喉を潤した。 「お前、その情報がどうやって売買されているか知ってるか?」 「いや? 興味もないし、気にしたこともないな……」  俺が知っている限り、侑は女に困ったことはないから、情報屋から好きな女の情報を買うような真似はしないだろう。それに、侑には長く付き合っている女がいる。侑から聞いたわけではないが、まず確かだ。 「自分に手紙を書くんだと」 「はあっ?」  侑は意外そうに言った。初めて聞いたときは、俺も同じ反応をした。 「封筒の宛名は自分の名前で、裏には『J』とだけ書く。それを自分のデスクのごみ箱に入れておくんだとさ」 「ごみの回収は清掃会社の人間だろ?」 「正確には本社で雇っている清掃職員だ。外部の人間じゃない。で、俺は本社勤務の清掃職員を調べたんだが、五十代後半から七十代前半までの男女合わせて十人で、どう調べても上層部とは無関係だ。しかも、清掃職員がごみの回収をするのは夜間だが、手紙がなくなる時間は夜間に限らないらしい」 「へぇ」  侑がようやく興味を示した。俺は話を続ける。 「で、だ。清掃職員が白とは断定できないが、清掃職員の中に協力者はいるのかもしれないとにらんでいる。そして、情報屋本人も社内の事情に通じていて、社内を自由に歩き回れる人間だ」  俺はいつになく早口で話していた。口が乾く。 「お前、楽しそうだな」
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