第十章 本能のままに

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 午後六時。  私と蒼は居酒屋にいた。春田さんと満井くんと会うために。  私のバッグの中には、婚姻届が入っていた。後は私が記入するだけ。 『これは咲が持ってて。いつ出すかは、咲に任せるよ』  おじさまが証人欄に記入を済ませると、蒼は言った。  私は黙って、それを受け取った。たかが紙切れ一枚なのに、鉛のような重み。  これは、罰だ――。  これまで、散々蒼を試して、焦らしてきたことへの罰。  私の覚悟を試されてる――――。 「成瀬さん!」  呼ばれて振り返ると、春田さんと満井くんが店の入り口に立っていた。    「春田さん、満井くん」  春田さんは薄いピンクのワンピースで、満井くんはTシャツにジャケットとジーンズ姿で、社内での印象とは違って見えた。  若いな……。 「私服だと、二人とも若いな……」と、蒼が呟いた。 「ふふ……」 「なんだよ?」 「二人とも、昨日はお疲れ様」  私は春田さんと満井くんに言った。 「いえ、成瀬さんと課長の方が……」と言いかけて、春田さんがハッとして手で口を押えた。 「すみません。もう……課長じゃないですよね」 「気にしないで。蒼、でいいよ?」  春田さんは少し恥ずかしそうに笑った。  可愛いなぁ……。 「今の……庶務課はどう?」  乾杯をして、私と蒼が辞めた後のホールディングス総務部の様子を聞いた。  一時は混乱もあったけれど、課を越えて協力し合い、今ではすっかり平穏を取り戻したようだ。
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