0人が本棚に入れています
本棚に追加
「覚えているとも。君が畑仕事をしている所に通りかかった僕が、君に一目惚れしたのだから」
「初対面で好きだと言われたのは貴方が初めてでした」
「歌を歌いながら泥だらけで田植えをする君の早乙女振りに、声をかけずにはいられなかったんだよ。そうからかわないでくれ」
くすくす、風がそよぐ様な控えめな笑い声に頬が熱くなるのを感じる。
彼女は植物が好きで、田植えから庭の小さな花を育てるまで、植物に関わると楽しそうに鼻歌交じりに世話をしていた。病に伏してからは僕が代わりに水をやって、彼女は縁側に腰を掛けて、少し羨ましそうに花を眺めていた。
「貴方と夫婦になれて本当によかった」
「どうしたんだい。普段はそんなこと言わないのに」
「きっと」
彼女の言葉に僕は嬉しさより先に、違和感が胸の中に立ち込めるのを感じる。
そんな僕の様子を知ってか知らずか彼女は、変わらない薄い微笑みでゆっくり息を吸った。
「これが最期ですから」
僕はその言葉を聞いて、すっと胸のつかえが下りた気がした。
「そうか」
「泣かないんですね」
「僕は君の旦那だよ。君が笑っているのに、僕が泣く訳にはいかないだろう」
「そういう意地っ張りな所も好きですよ、私」
医者からも彼女の余命がほぼ無いのは聞いていた。だから夜中に彼女の口元に頬を近づけて何度も、この細い息が切れていないか確かめたものだ。最初は彼女に知られない様に夜中の便所で何度も泣いた。でも途中で思ったのだ、彼女の前では決して泣かないようにしようと。
僕は彼女の旦那なのだ。
「私、眠くなってきてしまいました」
「そうかね」
「少し休みますね」
うつろになっていく彼女の瞳に、僕は心臓が早くなるのを感じる。
「僕も君と夫婦になれてよかった」
彼女はゆっくり目を閉じながら、薄い唇を動かした。音こそ出ないが、僕の名を呼んだその声に僕は何度も「うん」と返事返した。
彼女の胸はもう動いていなかった。細く隙間風の様な息も、もう聞こえない。
「君に出逢えて、よかった」
奮える唇で独り呟いてから、まだ温かい彼女の額に唇を寄せて華奢な体を抱き寄せた。
最初のコメントを投稿しよう!