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妻は、あの日から変わった。
第一子を妊り、幸せだった。しかし、あの夜――激しい陣痛の後の破水、そして子どもは――亡くなった。
その時は、彼女も涙を流していた。そんな妻の肩を、俺は抱き寄せた。
しかし、退院して間もなくのことだった。
「おはよー陸人、今日も元気でちゅねー」
陸人は、臨月に入った頃に二人で考えた赤ちゃんの名前だ。それを、空のベビーベッドに呼びかけていた。
最初は、彼女の好きにさせた方がいい――そう思い、放っておいた。いつか、なくなると思っていた。
しかし、それは違った。
「うわ、すごーい陸人!!よく寝返りしたね!!」
「そう、そう!見てみて、あなた!陸人、ずりばいしたの!!」
誰も食べない離乳食を作り、腕に滴るミルクも気にしない。気がつくと汚物入れの中には、汚れていないオムツが溜まっていた。
「あのさあ…………お前、死産したんだよな?」
ある日の夕食時、切り出した。
「え?どういうこと?」
空中にスプーンを付き出したまま、こちらも見ずに言う。横から少しだけ見える彼女の顔は、とても無邪気だ。
「だって、あの時、医者から聞いたろ?」
「何を?あなた、おかしいよ。病院行った方がいいんじゃない?」
その目は、純粋に心配している。一瞬言葉を失った。が、直後に閃いて俺は言った。
「わかった。その代わり、付き添ってほしい」
妻は、統合失調症だと診断された。
一週間の入院。死産から、一年が経っていた。
「陸人がね……。陸人が、聞くのよ……どうして僕を殺したのって…………」
「うん……」
「私、何もできなくて……撫でるしかできなかった……」
「うん……」
一歳の子どもはそんなに流暢に喋らない。やっぱり、妻は幻を見ていたんだ。
現実を知った妻は、どんどん痩せ細っていった。食事が喉を通らないらしい。一週間の予定だった入院期間は延長せざるを得なかった。
数ヶ月後、治療の甲斐もなく妻は死んだ。
葬式も四十九日も、無心のうちに過ぎていった。本当に悲しいときは涙すら出ないものだとは、よく言ったものだ。
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